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古田武彦・古代史コレクション10

第二章 多賀城碑再考

ミネルヴァ書房

古田武彦

 杜の都で得た学的刺激

 昭和六十一年十一月十六日、再び仙台をおとずれた。この思い出の街にも、「仙台・古代研究会」が生まれていた。“卑弥呼(ひみか)ちゃん”という、可愛いお嬢さんをもつ、若い母親の“肝煎り”であった。
 そのときの、最新の研究や発見を、思い切ってぶっつける。そして反応をお聞きする。その、こよなきチャンスとなっていたのである。
 わたしには、不思議だ。東京・大阪・神戸・下関・博多・仙台・青森と、各地にそういう会が生まれていた。読者の方が“勝手”に作って、わたしを呼んで下さるのである。
 わたしは、孤立の探究者だ。その点、今も、昔も、変りはない。学問は、わたしにとって、生きるための“証(あか)し”だから、この点、生涯変りはない。
 それなのに、各地で思いもかけぬ人々が読者として、わたしに語りかけられる。会に呼ばれるたびに、思いは、「この世にありとは思われず」、この一語だった。
 今回も、話した。まだ、ぶつかったばかりの、わたしの“発見”を。いや、本当に“発見”なのか、どうか。反応を聞いてみたかったのだ。だから、未熟をかえりみず、率直に語った。ことに、地元の多賀城の情報に精しい仙台の方々には、是非聞いてほしかった。
 いろいろ、反応があった。手きびしい批判も出た。その一つに、わたしの新しい解読法に対応する、文献上の先例はあるか。そういった質問も出た。
 わたしはすぐ、答えた。
「先ほども申しました通り、倭人伝では、必ず、『方角と里程』、あるいは『方角と日程』が書かれています。
 一見、そうでないように見えるところも、あります。たとえば、朝鮮半島の狗邪韓国から九州北岸の末盧国まで。千里・千里・千里と、三回ありますね。正確には、『千余里』ですが。あれには、方角がありません。
 だから、ここは、“どの方角へもっていってもいいのだ”と解して、五島列島の方や宗像の方へもってゆく論者が、一部にありましたが、これはまちがいです。
 なぜなら、『対海国』と『一大国』のところに、二回も、
 南北に市糴(してき)す。
とありますね。もちろん、これは、
 狗邪韓国 ーー 対海国 ーー 一大国 ーー 末盧国
の間が、大方向で、「南北」であることをしめしているのです。
 ですから、三つの『千余里』は決して“方角なし”ではありません。“北から南への一大交通・通商路上にある”こと、それを明記しているのです。ですから、「対海国」の所の、
 南、瀚海に至る
は、「千余里」の方角をしめすためのものではなく、「瀚海」の位置(「対海国の南」)づけをしめすだけのものなのです。
 要するに、ただやみくもに、一点を起点として『何里』とか、『何日』とかいってみても、どちらの方向へか、で、えらく到着点は変ってしまいます。
 ですから、『方角抜きの里程や日程』では、無意味。本来、位置指定のためのをなさないわけですよ、ね。ですから、“理屈”で、そのはずというだけではなく、“実際”にも、倭人伝で、そうなっているんです。
 こう考えてみると、今まで多賀城碑を『方角抜き』で読んできた方が、おかしかったんではないでしょうか」
 汽車の時刻がせまっていたので、わたしはそそくさと席を立たねばならなかった。秋の夜気のしみる、講演会のあとの、懇談会の席上だった。
 駅まで送って来て下さった方々とお別れして『やまびこ』の座席にからだをうずめると、脳裏によみがえるものがあった。先ほどの質問のテーマがなお刺激を残していたのである。

 中国の史書にあった先行例

 多賀城碑解説の、わたしの方法、それは一言でいえば、「西界読法」だった。従来“無用の長物”視されてきた「西」の一字、この特大の文字を“活かし”て読む。それも、徹底して、一貫して活用する。そういう方法だった。
 そのような記載法の先例が、もっとあったはずだ。そう思った。
 考えてみた。八世紀以前の文章、当然ながら中国の史書だ。八世紀以前の「里程記事」ともなれば、これしかない。何しろ、「里」という距離の単位自体が“中国生れ”なのだから、これは自然の成り行きといえよう。
 そこで、中国の歴史書を思い出してみた。 ーー司馬遷の『史記』、班固の『漢書』。いずれも、陳寿の『三国志』の“お手本”だった。頭の中のぺージをくっているうちに、「あっ!」と叫んだ。ーー 「西域伝」だ。
上野駅終着。家に帰りつくと、早速飛びついた。
 有名な、『漢書』「西域伝」は、『史記』における「大宛列伝」の発展である。前漢の武帝のとき、張騫が試みた、決死の西域探検、その一大紀行をもとにして、この列伝が可能となった。漢朝以前(夏・股・周・秦)にその例を見ぬところ、漢の正史たる『史記』の誇りとするところであった。
 これを継承し、発展させたものが、『漢書』の「西域伝」である。今まで詳密な知識のなかった“西域諸国”に関する詳細な記述である。
 その「西域伝」の冒頭部に次のような記載がある。

 玉門・陽関より西域に出ずるに両道有り。善*善の傍の南山の北より、波河西行して莎車に至る。南道と為す。南道の西、葱嶺を踰ゆれば、則ち大月氏・安息に出ず。
 車師前王廷より北山に随い、波河西行して疏勒に至る、北道と為す。北道の西、葱嶺を踰ゆれば、則ち大宛・康居・奄察に出ず。

[善*]善の善*は、善に阜偏。JIS第三水準、ユニコード912F

 ここには「波河西行」「西」「波河西行」「西」と、くりかえし“方向指示”が出現している(「波河」は“川に沿って行く”こと)。中国から、西域諸国へ行く、その行路記事であるから、当然であろう。
 さて、最初にこのような“方向指示”をおこなったあと、プッツリと「方向」が消えてしまう。たとえば、
イ、烏弋山離国。王、長安を去る。万二千二百里。
ロ、安息国。王、番兜城に治す。長安を去る、万一千六百里。
ハ、(大夏)五[合羽]侯有り。一に体密[合羽]侯と曰(い)う。和墨城に治す。都護を去る、二千八百四十一里、陽関を去る、七千八百二里。

 右のように、長安(或は、都護・陽関)を去る、〜
という形の「里程記事」がくりかえし出てくる。周知の通りだ。
 ところが、それらにはいずれも“方向指示”がないのだ。なぜか。
 いうまでもない。すでに、最初に「大方向」を指示してあるからだ。もちろん、それらの国々が、全部「長安」や「都護」や「陽関」から“真西”にあるわけではない。ひとつ、ひとつが「西行」ばかりのはずはない。
 しかし、今は、“細部”が問題ではない。「大局」だ。それが史書の面目である。その「大局」において、これらの諸国が中国(長安・陽関)から“西”にある。それはすでに冒頭でしめした。だから、あとは“省かれ”ているのである。

 中国の西域経営を手本とした近畿天皇家

 このように見てみると、何のことはない。多賀城碑の書式は、この『漢書』「西域伝」を踏襲していたのだ。こちらは、簡明に、
「西」
と特記した。誰にも、目につくように。そして「西域伝」と同じく、
 去・・・里
の様式で書きすすめていった。“「西域伝」と同じように、「方角抜き」の里程記載は、冒頭の「西」をもとにして読んで下さい”。そういっていたのである。
 そういえば、「西域伝」には「都護」の概念がある。先の ハ、の事例に、
  都護を去る、二千八百四十一里、
とあるのが、それだ。
 これは、こちらでは「多賀城」に居した「按察使、兼、鎮守将軍(大野朝臣東人)」や「仁部省郷、兼、按察使、鎮守将軍(藤原恵美朝臣葛*)」を指した概念と対応しているのではあるまいか。

朝葛*(あさかり)の葛*は、けもの編に葛。JIS第三水準ユニコード5366

 また、 ハ、 に「陽関」がある。
  陽関を去る、七千八百二里。
 この「陽関」とは、異城に入る関門であった。
  王維、元二の安西に使するを送る詩
  渭城の朝雨、軽塵を邑*(うるお)
  客舎青青、柳色新たなり
  君に勧む、更に尽くせよ一杯の酒
  西のかた陽関を出ずれば、故人無からん
(「故人」は“友人”を指す。第四句を反復して歌い、これを「陽関三疊(じょう)」という。送別の曲。)

邑*(うるお)すは、三水編に邑。JIS第三水準、ユニコード6D65

という、有名な詩がある通りだ。すなわち、この「陽関」とは、“中国本土の西の国界”を意味する場所なのである。
 これに対し、多賀城碑は「国界」という概念をもとに、「四つの里程記載」を行っていたのであった。
 多賀城碑を、その“お手本”になった、『漢書』「地理志」と比べてみると、もう一つ、重大なテーマが浮び上がってくる。それは、
  「都護は、西域の中にある。」
 これだ。「西域伝」の中に頻出する「都護」について、次のように記載されている。
ニ、亀茲(きじ)国。・・・東、都護の治所、烏壘(うるい)城に至る、三百五十里。
ホ、烏壘。戸百一十、口千二百、勝兵三百人。城都尉・訳長、各一人。都護と同治す。其の南、三百三十里、渠犂に至る。

 左図インターネットでは別表示)にも明らかな通り、「都護の治所」であった烏壘の地は、西域の“内部”にあった。そこは「城都尉と都護」との両者が「同治」するところであった、という。軍事上及び政治上の要衝だったのである。
 とすれば、この「烏壘」のもつ性格が、わが日本列島の東北の地、多賀城と酷似した様相をもっていることに驚くであろう。
 もっとも、“驚く”ことなど、本来不要なのかもしれぬ。なぜなら、わが「多賀城」を、この東北の地に設置するさい、近畿天皇家側が、その「先範」となしたものこそ、中国(漢王朝)の「西域経営」であったこと、おそらく確実だからである。
 否、“歴史を溯る”までもない。多賀城建設と同時期、唐時代、唐王朝がこの西域の地に「安西都護府」を設置したこと、あまりにも有名である。
 はじめ、貞観(六二七〜四九)中、高昌を平げて交河城にこれを置き、のちに、顕慶(六五六〜六一)のはじめ、楊冑が亀茲を平げたとき、ここに「亀茲都督府」を置き、ここに「安西都護」を移した事跡が知られている。(六一ぺージの図、参照。インタネットでは別表示。左図に同じ)
 八世紀の近畿天皇家が「律令格式」の制定のさい、唐制をほぼ全面的に模倣したことは、周知のところだ。そのような天皇家であるから、唐王朝の「異城経営」方式に無関心であったら、その方がかえって不可解なのではあるまいか。
 そして今、肝心の一点、それは次の点だ。
 「安西都護府は『異域(西域)』の真只中におかれた。
 これである。とすれば、先述のような、わたしの分析の場合、
  「多賀城は、異域(蝦夷国)のさ中に位置する」
 この理解こそ、自然であった。かえって、従来説のような、
  「多賀城は、蝦夷国(陸奥国)にあった。」
と見なすような読解法こそ、逆に不自然、唐朝における最大の先範と“矛盾”するものだった。旧来、この重大事に“気付かず”にきていたことこそ、むしろ不可解の一事だったのである。

 西域にて古代の東北を考える

 わたしは西域へ向かった。『史記』『漢書』など、紙の上では、何回もお目にかかっていた。文字に書かれたものとしては、“知って”いた。だが、現場を踏んだことがなかった。
 歴史学は、やはり自分の足で踏まねはならぬ。その歴史の展開された場面をーーー。活字を追うていただけでは、本当のことは分からない。これがわたしの実感だった。
 昭和六十一年八月十八日、北京に着いた。一行七人(朝日トラベル主催旅行)の小人数だった。翌日、夜行列車で内蒙古自治区の呼和浩特(フフホト)へ行き、さらに包頭(パオトウ)へ向かった。二十日は包頭に泊り、翌日早朝、列車で蘭州(ランチョウ)へ発(た)ったのだが、ここで“事件”が起きた。
 前夜、ホテルで通訳さんから「トランクを廊下に出すように」といわれて、そうした。ところが翌朝、包頭の駅に着いたのに、トランクが来ていない。通訳さんは、発車の二十分くらい前、「ちょっと、用があるので」と、姿を消した。わたしたち旅客を“置き去り”にするとは、ルール違反。だが、みんな「きっと、恋人とデートの約束でもあったんだろう」と、蒙古娘の美人通訳さんに対して好意的だった。
 だが、発車時刻になっても、トランクは来ない。駅の方に連絡したところ、「あとで、すぐ送るから、このまま乗ってくれ」とのこと。信頼して乗車したのだが、トランクは旅行中、ついにとどかなかったのである。
(甘粛・新彊周遊終了後、八月二十六日、ウルムチで北京へ飛ぶ直前、トランクが現われたけれど、「中味」〈金目(かねめ)のもの〉はすべて“抜かれ”た上、鍵がかけられていた。ただ、わたしと添乗員の竹野さんは、それぞれ、文字錠、電子錠だったため、災をまぬかれた。当然、新彊省及び北京の国際旅行社にとどけ、調査、処罰、弁償を確約してくれたものの、そのまま。今日に至るまで、何回催促しても“梨のつぶて”である)。
 かつての中国では、考えられなかったこと、悲しかった。
 着たきり雀の毎日だったけれど、西域行は楽しかった。沙漠の中を行く自動車の車中から、前方には絶えず、蜃気楼が見えていた。街が近づいた、と思っていると、フッと消えてしまう。昔、熱砂の上を歩きつづけていた旅人には、どのような哀歓をもたらしただろうか。
 行き先は、吐魯番(トルファン)、回[糸乞](ウイグル)族の世界。夕暮れのバザールの一角の、空いた椅子に腰かけて行き交う人々を見つめていたら、若い娘を連れた母親らしい女が、わたしに向かって話しかける。手ぶりで指さす。振りかえってみると、わたしのうしろの台に白い反物(たんもの)が並べられている。わたしに、それを売れ、といっているのだ。

回[糸乞](ウイグル)の[糸乞]は、JIS三水準、ユニコード7D07

 そういえば、ここを行き交う人には、いろいろな顔がある。身なりがある。まるで地球のはしばしから集まってきたような。フランス映画のワンシーンに登場しても、そのまま通用しそうな青年たちもいれば、日本人と全く変わらない顔つきの子供もいる。わたしが沙漠の商人にまちがえられたのも、無理はない。
 印象深かったのは、バザールの入口。そこには、片方に回[糸乞]文字、片方に中国文字。二様に書かれている。後者は、何とかわたしにも意味が通ずる。つまり、「漢字」は、言語も宗教も風俗もちがう、沙漠を行き交う各民族・各種族に共通の表意文字。たとえ口で読めなくても、意味は分かる。わたしもその一人だった。

 「集字」こそ真作の証明

“沙漠の中の文字”、その第一史料にお目にかかったのは、甘粛省の博物館の中だった。
 その博物館は、どの部屋も、どの部屋も、やけに大きい。その大きい部屋に彩色土器がいっぱい並んでいる。壮観だ。しかも、それらはほとんど完形品。日本でいつも、つぎはぎだらけの縄文土器、考古学関係者の苦労のしのばれる、作品“(破片群からの構成物)”を見なれているわたしには、驚異だった。
 もっとも、これとは一味ちがった“おどろき”を感じさせられたのは、「縄紋土器」の展示だった。形状も、ムードも、わたしたちの“目馴れ”た、日本列島の縄文土器とは異なるものの、確かに“縄目模様をもつ尖底土器”にはちがいなかった。
 この不思議な「縄紋土器」にふれた経験、その刺激はやがてわたしを“日本列島の縄文土器群成立の原因探究”へと駆りたてることとなったのだけれど、その話は、またにしよう。今の問題は、沙漠の中の、いや正確にいえば、沙漠に至る道筋に立つ金石文だ。
 この博物館には、石碑の拓本がたくさん展示されていた。かなり背の高い石碑も少なくないから、その拓本群の叢立した姿は壮観である。ひとつ、ひとつ、見てまわるうち、わたしは、あっと、息を飲んだ。
 この甘粛省の地に「節」(中国の天子の任命のしるし)を奉じて至った、唐代の将軍がこの地で没した。その功業をしるした石碑なのだけれど、その各行がゆがんでいる。右に、左に、しだれ柳のように、行がゆれているのだ。
 「拓本者のミスか」。「風のはげしいとき拓出したため、用紙がぶれたのか」。そのような思案をめぐらしつつ、熟視したが、やはり、そうではなかった。もと、つまり石碑の文字そのもの、石刻字自体のがゆれているのだ。第一、そんな「失敗拓本」を、麗々しく表装して、立派なガラスの展示戸の奥に“安置”させるはずもない。
 その上、文字そのものが、おそろしく“下手”だった。金釘流もいいところ。それも、その一紙全部の文字がそうなのだ。これなら、わたしのような者でも、唐代のこの地帯の「石工」はつとまりそうである。
 ふっと、我にかえって、考えた。「なぜ、なぜこんなことになったのか」と。
 将軍は死んだ。この、長安から遠くはなれた遠域で、その生涯を閉じたのである。「文字の国」中国の将軍だから、当然“建碑”が企図された。しかし、石工がいない。わざわざ長安から呼ぶことなど、とても無理。そこで現地で“求人”した。石碑でこそなけれ、何等かの“石造の業”にたずさわっていた者が、代用されたのであろう。
 しかし、石に“真っ直ぐ”彫る、というのは、容易ではない。紙に書くのでさえそうだ。あの親鷺なども、普通の冊子に書く場合とちがって、「南無阿弥陀仏」の六字名号を大きく書いた場合など、かなりぶれていること、珍しくない。
 文字を書き馴れている人でさえ、そうだ。まして「文字の石工」としての経験のない“臨時石工”の場合、このような“仕上り”になるのも、止むをえないのではあるまいか。
 これは、中国の中央(洛陽・長安)を遠く離れた、西域への途上の地における石碑の実態だ。だとすると、ーーー。わたしは、同じく、遠く東の海上に浮かぷ日本列島、その東北の遠域に建てられた多賀城碑の刻字、その“下手さ”加減のもつ真実性(リアリティー)、そのイメージを反芻(はんすう)した。その心を察していただけるであろう。
 あちら(多賀城碑)も、行がぶれていた。上端が“ふぞろい”だった。それはまさに、中国という文字の国の中央部から遠くはなれた地域に建てられた石碑として、東西のちがいこそあれ、まことにふさわしき姿をしめしていたのだ。
 その上、あちらの方は、「金釘流」ではない。それぞれに、立派な「文字」だ。ただ、楷書風、行書風、また必ずしも同一でない流派の筆致の文字、それが“集め”られている。明治の書の大家、中村不折(ふせつ)が「多賀城碑に『集字』あり」として、当碑を偽作視する、根本のテーマとしたところだ。
 だが、八世紀、東北の地の石工にとって、「集字」こそ、もっとも適切な方法、採りうる唯一の撰択だった。もし江戸時代の「偽作石工」なら、必ず“同一流派の筆致の文字”に統一し、書道にもっとも忌むという「集字」など行わなかったであろう。
 すなわち、多賀城碑の文字のバラエティ、いわゆる「集字」の存在は、「偽作」の証拠ではなく、「真作」の証跡だったのである。
 わたしは満ち足りた思いで、甘粛省博物館をあとにした。ここから得た“探究のための手がかり”は、あまりにも豊富だった。ただ当石碑拓本の写真が撮れなかった(「請勿拍照」=撮影禁止)ことは、残念だったけれど、ゆがんだ行格の形相は、しっかりと、自分の目というフィルムに収められたのである。

 文献の中の多賀城碑文

 わたしは日本に帰ってから、文献に取り組んだ。その“標的”は、『続日本紀(しょくにほんぎ)』。多賀城碑の信憑性を考える上で、この文献との対面は避けられない。
 なぜなら、多賀城碑は、二つの歴史的事実を記載している。
 此城
 (一)神亀元年(七二四)歳次甲子、按察使兼鎮守将軍、従四位上、勲四等、大野朝臣東人の置く、所なり。
 (二)天平宝字六年(七六二)歳次壬寅、参議、東海・東山節度使、従四位上、仁部省卿兼按察使、鎮守将軍、藤原恵美朝臣、朝葛*、修造するなり。
      天平宝字六年十二月一日
 
朝葛*(あさかり)の葛*は、けもの編に葛。JIS第三水準ユニコード5366

 右の八世紀中葉をはさむ三十九年間は、聖武・孝謙・淳仁の三代にわたっている。すなわち、『続日本紀』の只中である。従ってこの「正史」の記載とは対比さるべきこと当然だからである。ところが、両者の間に、いずれも「微差」ながら、幾多の齟齬(そご)があり、江戸時代以来、論者の疑惑するところとなった。たとえば、次のようだ。

(1),大野東人について、続紀(『続日本紀』)は次のように記している。
(天平三年〈七三一〉正月二十七日)従四位下多治比ノ真人広成、紀ノ朝臣男人、大野朝臣東人に、並びに従四位上を授く。

 右に見えるように、「七三一」時点で、やっと「従四位上」に昇進した。だのに、碑文の「七二四」(神亀元年)時点で、すでに「従四位上」であるかのように刻文されているのは、矛盾である。

(2),藤原恵美朝猫について、「東海・東山の節度使」と刻文している。しかるに続紀では、
(天平宝字五年、十一月十七日)従四位下、藤原ノ恵美ノ朝臣朝葛*を以て、東海道の節度使と為す。

 となっている。ここには「東山」がない。矛盾である。

(3),同じく、朝猫の位号が「従四位」と刻文されているが、続紀では、

イ、(天平宝字六年十二月一日)又、従三位藤原ノ朝臣弟貞、従四位下・・・藤原恵美朝臣朝葛*、中臣ノ朝臣清麻呂、石川ノ朝臣豊成を以て、参議と為す。
ロ、(天平宝字八年七月十二日)是(ここ)に至りて、御史大夫、従二位、文室ノ真人浄三、参議仁部卿従四位下藤原恵美朝臣朝葛*召して、禁内に入れ…

とある。
 右の イ、 は、まさに当碑末尾の「年月日」と同一となっている。それなのに、こちら(続紀)では「従四位」であり、矛盾している。
 それのみか、二年後の「天平宝字八年」になっても、依然「従四位下」であるから、当碑刻文との齟齬は、いよいよおおいがたい。
 さらに、その年(天平宝字八年)の九月十一日、
  太師藤原ノ恵美ノ朝臣押勝、逆謀頗(すこぶ)る泄(も)る。
とあり、これまで特進に次ぐ特進をもって、栄耀栄華を極めた観のあった押勝(藤原仲麻呂)は、一朝にして逆賊の汚名をこうむり、誅滅されるに至ったこと、有名だ。当の朝葛*は押勝の子であり、父と共に誅殺(ちゅうさつ)された。
 すなわち、朝葛*の場合は(大野東人のケースとは異なり)、「従四位」になった形跡はない。続紀の記載に従う限り、そのように見る他はないのである。一見些少だけれど、消しがたい矛盾だ。
 以上の諸点は、江戸時代の学者、伊藤東涯(とうがい)・藤井貞幹(ていかん)・尾崎雅嘉(まさよし)・狩谷[木夜]斎(かりやえきさい)等の諸家がこぞって指摘した。けれども、
  「是碑は自己の署たり。当に史を以て遺漏とすべきなり」
   (狩谷[木夜]斎『右京遺文』文政元年〈一八一八〉)
というように、大局の判断を失わなかったようである。

[木夜]斎(えきさい)の[木夜]は、木編に夜。JIS第三水準、ユニコード68ED

 これに対し、かえって明治以後、田中義成等、「偽作説」の論者は、当然ながら、これらの齟齬をもって「偽作の痕跡」と考えた。いわば、“衣のすそからもれた鎧”のごとく見なしたのである。

 金石文は文献に優越する

 以上のような多賀城碑研究史にふれてゆくうちに、わたしには何か“ことの真相にふれる”感触があった。時として、深い歎息がもれた。わたしの感じたところ、得たところを、率直に書こう。
 第一に、特筆大書すべきこと、それは、右の各矛盾点の存在は、当の「偽作説」論者にとって決して“有利”な問題ではなく、逆に“不利”な問題である、という、この一点だ。
 なぜなら、室町なり、江戸なりの“偽作者”がいたとして、「続紀を見ずに偽作する」、そんな“偽作者”がいるだろうか。わたしには考えられない。なによりも、続紀を見なければ、冠位・位号等、“大体合っている”、そんな形で、書けるはずもない。
 そこで、“見た”とする。そのさい、なぜ、右のように“見えすいた”齟齬や矛盾をもつ形で書く(刻文する)必要があろう。考えられない。“続紀と矛盾せず、その上で、続紀にない部面に及ぶ” ーーこれが“偽作者のマナー”、採択せざるをえぬ一種のルールではあるまいか。
 以上のように考えてみると、当碑文は「偽作の態(てい)を成していない」のである。
 第二、さらに、進一歩しよう。わたしたちは、江戸時代や明治・大正・昭和(敗戦前)の諸家に対して、有難いことに、いちじるしく有利な地歩にある。
 たとえば、昭和五十四年に出土した、太安万侶(おおのやすまろ)の墓碑銘がある。
  養老七年(七二三)十二月十五日乙巳
とあるから、当碑文の「神亀元年(七二四)」の前年。それも、その十二月中句だから、まさに“一年”とちがわない頃、多賀城は“創建”された。
 さて、その主文は次の通りだ。
  左京四條四坊従四位下勲五等太朝臣安萬侶以癸亥年七月六日卒之
 出土当時、話題の中心となったのは、「『古事記』序文」との対応だった。そこには、正五位上勲五等太朝臣安萬侶とあった。ところが、続紀には、
  (養老七年七月庚午〈七日〉)民部卿従四位下太朝臣安麻呂卒
 とある。つまり、
 1). 原文には「勲五等」とあるのに、続紀にはない。
 2). 序文には「安萬侶」とあるのに、続紀には「安麻呂」とある。
 これらの齟齬ないし矛盾が“疑惑”されていた(序文の「正五位上」と続紀没年の「従四位下」は、別に矛盾がない。『古事記』撰進時が前者、没年は“昇進”して、後者だからである)。
 ところが、このときの墓誌銘の出現によって、一気に、右の1). 2). とも、「序文にあやまりなし」が証明されたのである。(1)
 今は、この“古事記序文の信憑性”の問題ではなく、“続紀の信憑性”の問題へと、目を向けよう。いわゆる「続紀の史料批判」の問題だ。
 1)、続紀には「勲五等」の称号が、(実際は、授与されていたにもかかわらず)記載されていなかった。「脱漏」問題である。
 2)、続紀の採用していた「安麻呂」でなく、「安萬侶」の方が、表記としてより厳格であった(もちろん「安麻呂」が“まちがい”というわけではない)。これも、「安萬侶、表記」の“逸脱”問題とも、見なしえよう(朝葛*の場合、続紀は「朝葛*」と「朝狩」の両方を使用している)。
 要するに、続紀は、その記事や表記について、これを、絶対視“することはできぬ。江戸期の金石文研究家たる、狩谷[木夜]斎がすでに己が直観をもって、“看破”していたところ、それを、この太安万侶墓誌銘の出現が「実証」をもって裏づけたのである。
 以上の出土事実、研究史の意味するところ、それは明白であろう。すなわち、「多賀城碑文と続紀との間の齟齬から、前者(金石文)を疑う方法、それは正しくなかった」 ーーこの教訓である。

 続日本紀に後代の改変あり

 「文献に対する、金石文の優越」 ーーこの原則を歴史学の方法論の基礎にすえた人、それは、若き日の井上光貞氏であった。(「再び大化改新詔の信憑性の問題について」。『歴史地理』八三ー二、昭和二十七年七月)
 師の坂本太郎氏との間で、敢然と行われた郡評論争、その中で光貞氏は、次のようにのべられた。

「おもうに、歴史研究上の資料は、そのことを語る資料がその当時作られたものであることを尊しとし、これに重点をおくのと、後世成立の資料に重きをおくのとは、帰するところおのずから明らかであり、私のひそかに考えるところによれば、私ははじめから有利なところに陣を布いていたのである。従つて、私の考えに誤りがなかつたなら、私の推理の結果ではなくて、その立脚点の故であり、私としては自説を証し得たのも当然のことであつたと申す他はない。」

 わたしは、この若き光貞氏の言明を敢然と支持する者である。
 氏は、「七世紀末以前」の金石文等の同時代資料において、行政単位が「郡」ではなく、「評」とされている、この一点に着眼された。
 これに反し、『日本書紀』(『古事記』)・『続日本紀』とも、これらのほとんどが「郡」として叙述されているのである。
 これに対する、氏の判断、それは、
  「評が是、郡は非」
 この簡明な帰結にあった。そしてこの簡明な帰結を、藤原宮(奈良県)や伊場(静岡県)から出土した木簡群が証明したのであった。
 反面、この、日本史学界の忘るべからざる論争、これを正面から“承けて立たれた”師の坂本太郎氏の、堂々たる学問的風格に対して、改めて深く敬意を表したい。
 この、研究史上著名な論争を、ここに敢えて記したのは、他でもない。この問題は、「続紀の史料批判」上、見のがしえぬテーマを提起しているからである。すなわち、
  「続紀の叙述は、当時点の、ありのままではない。後代(著作成立時)の観点から“書き改め”られている」
 これだ。このような視点からすれば、第一史料たる金石文と、続紀の叙述と、両者の間に齟齬のあること、むしろ当然なのである。先の「大安万侶墓誌銘」の提起したところが、むしろ“技術的”な問題だったのに対し、この「郡評論争」の提起する問題は、むしろ“イデオロギー的な”問題だ。
(ちなみに一言する。「郡評論争」は、まだ決して終わっていない。なぜなら「評制の制定者は誰か」、「なぜ、記・紀の編纂者は、それを隠したのか」といった、真に「歴史的なテーマ」に対し、何の応答も行われていないからである。古田『古代は輝いていたIII』「法隆寺の中の九州王朝」、朝日文庫末尾「郡評論争」参照)

 土中に温存された史実

 さて、この多賀城碑には、右の二つの問題が“影をおとし”ている。
 〈その一〉純技術的問題。大野東人のケースがそれだ。「神亀元年」には、まだ「従四位上」にはなっていなかった。しかし、その後(天平三年)、「従四位上」になった。多賀城在任中の“最高位”を記したと解すれば、“合う”。正規の書法とはいえぬけれど、ありうるケースだ。たとえば、
 「酒匂大尉は、好太王碑の双鉤本をもち帰った」
 という文章。これは、正確には、あやまりだ。なぜなら、当時彼は「中尉」だったからである。けれども、没時は「大尉」だったから、右の文面は、慣例上、存在しうるのである。これと同じだ。だが、これと同一に律しえないのが、次の朝葛*のケースである。
 〈その二〉東人と異なり、朝葛*は(続紀による限り)終生「従四位上」に達していない。では、なぜか。それを解く鍵は、続紀の次の文面にある。
  イ、(天平宝字八年九月十八日)押勝、知らずして塩焼を偽立して今帝と為す。真光・朝葛*等を皆三品と為す。余は各差有り。
  ロ、又、勅して曰く「逆臣仲麻呂、右大臣・・・豊成が不忠を奏す。故に即ち左降す。今既に讒詐を知りて、其の官位を復す。宜しく、先日下す所の、勅書官符等の類悉く皆焼却すべし」と。

 右によって、仲麻呂等(朝葛*をふくむ)を斬って後、彼が顕位にあった頃の「勅書官符等の類」が悉く皆焼却されたことが知られる。とすれば、その「大量の焼却書類の喪失状況」の上に、続紀は編集されていることとなろう。
 このような実状況から見れば、続紀の記載との「些小の差異」をもととして、第一史料たる金石文(多賀城碑)を疑うことは、やはり不当だ。続紀のみずから告白する“依拠史料の欠落”を無視するものだからである。
 この仲麻呂・朝葛*等が斬られたあと、次の記事が続紀に現われる。
(天平宝字八年九月十八日)陸奥守、従四位下、田中ノ朝臣多太麻呂を以て、兼鎮守将軍と為す。右は、先の仲麻呂等誅滅、勅書・官符等焼滅の直後だ。この時点以後、多賀城碑は、建碑後わずか二年にして、この地上から姿を消したことであろう。ただ、土中に埋没させられたにとどまり、徹底粉砕の運命をまぬかれたこと、わたしたちはその幸運を歴史の女神に謝せねばならぬであろう。

 靺鞨国をめぐる疑義

 昭和六十年八月十九日、わたしは中国の吉林省、長春の博物館にいた。その一部屋に入ったとき、わたしは壁に掛けられた、一枚の拓本に吸いよせられた。同行の人々(朝日トラベル主催ツアーの一行)が先の部屋へ移って行っても、わたしはそこを動くことができなかったのである。
 その拓本の先頭の行は、
  勅持節宣労靺鞨使
となっていた。この「靺鞨」の二字を、わたしは追い求めていたのだった。
 多賀城碑の中に、もう一つの難問があった。それは、「去・・・里」の最末行だ。
  去靺鞨国界三千里。
 この「靺鞨」という国名が、いわば“目馴れない”ものだ。早い話、小・中・高の教科書を見ても、「対靺鞨・国交史」など、出ていない。
 そこで、当碑研究史上でも、この点に対して、疑惑が出ていた。大略、次のようだ。

 (1) 『日本書紀』・続紀を通じて、この「靺鞨」の国名が姿を現わすのは、次の一回切りだ(続紀)。
 (養老四年〈七二〇〉正月丙子)渡嶋津軽津司、従七位上、諸君鞍男等六人を靺鞨国に遣して、其の風俗を観せしむ。
 (2) これに対し、以降出現する場合、すべて「渤海」と記されている。たとえば、次のようだ。
  イ、(神亀四年〈七二七〉十二月二十日)渤海郡王の使、高斉徳等八人、入京す。丙申(二十九日)、使を遣して、高斉徳等に衣服冠履を賜ふ。渤海郡は、旧(もと)、高麗国なり。
  淡海の朝廷(天智)七年冬十月、唐将李勣、伐ちて高麗を滅す。其の後朝貢久しく絶へぬ。
  是に至りて、渤海郡の王、寧遠将軍高仁義等廿四人を遣して朝聘せしむ。而して蝦夷の境に著く。仁義以下十六人、並びに殺害せられて、首領斉徳等八人、僅かに死を免れて来れり。
  ロ、(神亀五年一月三日)天皇(聖武)大極殿に御す。王臣百寮及び渤海の使等、朝賀す。
  ハ、(神亀五年四月十六日)斉徳等八人に、各(おのおの)綵帛・綾綿を賜ふこと、差有り。仍りて其の王に璽書を賜ひて曰く「天皇、敬ひて渤海郡の王に問ふ・・・」
  
 右のように、「渤海郡王」に国書を送っている。いずれも「神亀年間」だ。さらに、
  ニ、(天平十一年〈七三九〉七月十三日)渤海の使(一に「郡」)・副使、雲摩将軍己珎蒙等、来朝す。
  ホ、(天平十八年)是の年。渤海の人及び鉄利、惣(すべ)て一千一百余人、化を慕ひて来朝す。出羽の国に安置し、衣粮を給て放還す。

というように、「天平年間」においても、渤海記事は点在している。さらに、
  へ、(天平宝字四年〈七六〇〉正月五日)帝(淳仁)臨軒す。渤海国使、高南申等、方物を貢す。奏して曰く「国王、大欽茂言ふ。『日本の朝の遣唐の大使、特進、兼秘書監、藤原河清の上表並びに、恒(つね)の貢物を献ぜんが為めに、輔国大将軍、高南申等を差して、使に充てて入朝せしむ』」と。(帝)詔して曰く「遣唐の大使、藤原ノ河清、久しく来帰せず。鬱念する所なり。而るに、高麗ノ王、南申を差し、河清の表文を齎(もたら)して入朝せしむ。王の欺*誠、実に嘉すること有り」と。

欺*は、JIS第三水準ユニコード6B35
齎*(もたら)は、齎の略字、JIS第三水準ユニコード8CF7、この字は有名な字です。

 右は、多賀城碑建立の二年前、「天平宝字年間」の記事である。
 従って当碑の叙述する「神亀〜天平宝字」の間、「渤海郡王」「渤海国」の記事が頻出している。

 (3) これらの状況から見ると、当碑が「去靺鞨国界」のみを記し、「去渤海国界」と記せぬのは、不可解である。

 以上が、「偽作説」論者の抱いた疑難であった。確かに、“続紀から見る”、すなわち「続紀中心主義」の視点から見れば、もっともな疑問であった。

 日本海にのぞむ大国

 けれども、目を遠く東アジアに移し、中国の史書の視野から多賀城碑を見れば、光景は一変する。

『旧唐書』の北狄伝では、次の八国名を挙げている。
  鉄勒、契丹、奚、室韋、靺鞨渤海靺鞨、[雨/習]、烏羅渾
  
ここでは、「靺鞨」と「渤海靺鞨」の両国が出現している。その靺鞨伝はいう。
 (A)靺鞨。蓋し、粛慎の地。後魏、之を勿吉と謂う。京師の東北、六千余里に在り。東、海に至り、西、突厥に接し、南、高麗に界し、北、室韋に鄰す。
 其の国、凡そ数十部為り。各酋帥有り。或は高麗に附し、或は突厥に臣す。
 而して黒水靺鞨、最も北方に処(お)る。尤(もっと)も勁健を称し、毎(つね)に其の勇を侍み、恆(つね)に鄰境の患ひ為(た)り。
 (B)酋帥、突地稽(人名)なる者有り。隋末、其の部千余家を率いて内属す。之を営州に処らしむ。揚帝、突地稽に金紫光禄大夫・遼西太守を授く。
 (C)(突地稽)貞観(六二七〜四九)の初、右衛将軍を拝し、姓を李氏と賜う。尋(つ)いで卒す。
 (D)子、謹行(人名)、偉貌、武力絶人、麟徳(六六四〜六六)中、営州の都督を歴遷す。其の部落の家僮、数千人。財力・雄辺を以て、夷人の憚る所と為る。累ねて右領軍大将軍を拝す。積石道(人名)を経略大使と為す。
 (E)其の白山部、素、高麗に附す。因りて平壌を収する(「高麗平定」を指す ーー古田)の後、部衆、多く中国に入る。泪咄、安居骨、号室等の部、亦高麗破るに因りて後、奔散微弱、後に聞く無し。縦(たと)ひ遺人有るも、並びに渤海の編戸為(た)り。
 (F)唯、黒水部全盛。分れて十六部を為す。部、又南北を以て称と為す。
 (G)開元十三年(七二五)、安東都護、薛泰(人名)黒水靺鞨に請ひて黒水軍を置く。続(つ)ぎて更に最大部落を以て黒水府と為す。仍りて其の首領を以て都督と為し、諸部の刺史、隷属す。中国、長史を置き、其の部落に就いて之を領す。
 (H)(開元十六年、七二八)其の都督、姓を李氏と賜ひ、献誠と名づく。雲麾将軍兼黒水経略使を授く。幽州の都督を以て、其の押使と為す。此れより朝貢絶えず。

 長文をかえりみず、引用したのは、他でもない。従来の、わたしたちの歴史知識に不足するところだからだ。要は、
1),「東、海に至る」とあるように、“日本海及びオホーツク海”に面した大国であったこと。
2),「恆に鄰境の患ひ為り」「夷人の憚る所と為る」とあるように、黒竜江流域・オホーツク海沿岸、そして日本海岸(沿海州)にまたがる、一大雄邦であったこと。
3),「経略大使」の設置にも見られるように、軍事のみならず、積極外交を展開していたこと。
4),開元十六年(七二八)以降も、ひきつづき健在であったこと(「此れより朝貢絶えず」)。

 以上によってみれば、当碑が、多賀城をめぐり、その周辺をしめす大局図示において、この「靺鞨」を特記したことの極めて適切であったこと、その実情勢が知られよう。いいかえれば、わずか一回(養老四年〈七二〇〉)これにふれ、そのあと「消息なし」といった態の、続紀の記述のあり方の方が、ゆがんでいる。東アジアの大勢、その実情況に合致していないのであった。
 すなわち、ここでも、第一史料たる金石文(多賀城碑)の方が真実(リアル)、後代史書たる続紀の方が、重大な史的欠落をしめしていたのである。

 日本国と交流のあった渤海国

 代わって、続紀が大書した「渤海」についても、同じく『旧唐書』の渤海靺鞨伝によって、大略を列記しておこう。
 (P)渤海靺鞨の大祚栄(人名)は、本(もと)、高麗の別種なり。高麗既に滅び、祚栄、家属を率いて営州に居す。
 (Q)祚栄、驍勇、善く兵を用う。靺鞨の衆及び高麗の余[火尽]、稍稍之に帰す。

[火尽]は、JIS第4水準ユニコード470EC

 (R)聖暦(六九八〜七〇〇)中、自立して振国王と為す。使を遣して突厥に通ず。其の地、営州の東二千里に在り。南、新羅と相接す。越憙靺鞨の東北、黒水靺鞨に至る。地方二千里。編戸十余万、勝兵数万人。風俗、高麗及び契丹と同じ。頗る文字及び書記有り。

 

(S)睿宗の先天二年(七一三)、郎将、崔訴(人名)を遣わし、往きて祚栄を冊拝せしめ、左驍衛員外大将軍、渤海郡王と為す。伍りて其の統ずる所を忽汗州と為し、加えて忽汗州都督を授く。是れより毎歳遣使朝貢す。
(T)(開元十四年〈七二六〉)黒水靺鞨、遣使来朝す。詔して其の地を以て黒水州と為し、仍りて長史を置き、遣使鎮押す。武芸(人名。祚栄の子)其の属に謂ひて曰く「黒水の途、我が境を経て、始めて唐家と相通ず。・・・」
(U)大暦十二年〈七七七〉正月、(欽茂。武芸の子)使を遣して、日本国の舞女一十一人及び方物を献ず。
(V)(貞元)十一年〈七九五〉二月、内常侍、殷志贍(人名)を遣して、大嵩憐*(人名)を冊して渤海郡王と為す。

憐*は、立心偏の代わりに玉編にJIS37498

(W)(貞元)十四年〈七九八〉、銀青光禄大夫、検校司空を加へ、進めて渤海国王に封ず。
(X)開成(八三六〜四〇)後、亦職貢を修むること、絶えず。

 右について、注目すべき点を左にあげよう。
1), 「渤海靺鞨」は、「黒水靺鞨」と、同じく靺鞨と呼ばれながら、“別国”であり、両国共在しつづけていた。
2), 「黒水靺鞨」は、黒竜江をふくむ地帯に広大な領域を展開していたのに対し、「渤海靺鞨」は、その西(現在の中国の東北地方の西半部)にあった。
3), 中国(唐)の使者が「黒水靺鞨」へ使するときは、この「渤海靺鞨の」を通過せねばならなかった。
4), 最初(七世紀末)、「自立」して「振国王」と称したが、後(七一三)「渤海郡王」の名を中国から与えられ、さらに八世紀末(七九八)になって「渤海国王」の名が許された。
5), 注目すべきこととして、八世紀後半(七七七)、「日本国の舞女、十二人)を、渤海郡王から中国(唐)の天子に献上している。日本国(近幾天皇家)との交流の濃密さをしめさんとしたものであろう。

 東アジアの古代を反映する多賀城碑文

 以上によって、「靺鞨(黒水靺鞨)」と「渤海国(渤海郡)」に関する、東アジア的視野からの大観を終えた。すなわち、多賀城碑の「靺鞨、項」(「去靺鞨国界三千里」)を解明すべき“基礎固め”ができたのである。
 当碑には、「西」の一字が大書されていた。それは、下記の「国界」(蝦夷国界・常陸国界・下野国界)をすべて、「西の国界」と解すべし、との指針。そのように解した。
 とすれば、最後の「靺鞨国界」もまた、「靺鞨の西の国界」と解すべし、との帰結は、およそ論理の必然である。

「崔折の記念碑」の拓本 真実の東北王朝 古田武彦

 わたしが長春の博物館で接した「崔忻の記験碑」(「記験」は“記念”の意)をふりかえろう。
  勅持節宣労靺羯使
  鴻臚卿崔忻井両口永為
  記験開元二年五月十八日
(あとの小字の四行は清朝の追刻による文章)
 これは、唐の使者、崔忻が「勅持節、宣労靺羯(=鞨)使、鴻臚卿(外務官僚)」として、この地「金州の旅順の海口の黄金山の山陰」に来たった、その記念として建碑されたものである(「両口を井す」は、二つの井戸を作った、の意か)。
 この「崔忻」は、先にあげた渤海靺鞨伝における(S)の「崔訴」に当るものであろう。 (2)  睿宗の先天二年は、同年十二月、開元と改元された。わずか一ヶ月で、開元二年(七一四)を迎える。この年の五月十八日、この建碑が現地(旅順)でなされたのである。
 右の(S)の記事がしめしているように、このとき(七一三)以来、大祚栄(人名)は「渤海郡王」「忽汗州都督」の称号を、唐から与えられた。
 とすれば、この金石文中の「宣労靺羯使」は、むしろ「宣労渤海郡使」もしくは「宣労渤海靺羯使」と刻文せらるべきではなかったか。そういう疑問も生じよう。
 だが、よく考えてみれば、右の(S)の記事の授号事件は、崔忻が当の本人だ。この建碑の直前(七一三)に成功した、この挙を“忘れる”はずはない。従って、彼の称号のしめすところ、彼の本来の任務は、「黒水靺鞨」と「渤海靺鞨」及び、その他の靺鞨をふくめ、「靺鞨部族全体」に対する“宣撫”だったのではあるまいか。当然ながら、出発に与えられた名だ。
 そしてその一環として、右の(S)項にしめされた「夷蛮授号」に成功したのであろう。いわば、全靺鞨族中、“親唐(中国)部族”を分離して形成させる計画が、“成就”したのだ。これはやがて、開元十三年(七二五)、ついに黒水靺鞨に「黒水軍」や「黒水府」を置き、中国に“同化”させていった、その後の、「対黒水靺鞨政策」にとって重要な、一大布石をなすものだったのである。
 これらの「未来」を“予測”しつつ、崔忻は、今はただ、「記験」の二字のみを刻入させたのであった。

 蝦夷国から沿海州へ至る道

 右の“事件”以来、「渤海」と「靺鞨」とは、別称号となった。
 従って先にあげた、『旧唐書』の項目で「靺鞨」「渤海靺鞨」と記されてあるように、ただ「靺鞨」とあれば、黒水靺鞨を指す。そういう時代となったのだ。
 そういう時代に、多賀城碑は建碑された。天平宝字六年(七六二)は、右の授号事件の四十九年あとだった。だから、そこに刻入された「靺鞨」とは、「渤海」に非ず、黒水靺鞨を指していたのである。その「西の国界」は「渤海の東界」に当たっていた。 (3)
 では、多賀城より黒水靺鞨の「西の国界」へと至る道、 ーーそれはどこか。
 黒竜江(アムール川)の支流にウスリー川がある。その上流、南端部にハンカ湖がある。このルート(ウスリー川)を下りゆけば、“容易”に、本流(黒竜江)に合流する地、ハバロフスクヘと到着しうるであろう(九〇ぺージの図、参照 インターネットでは別表示)。
 このハンカ湖の地帯へ、日本列島の東北地方、蝦夷国内の多賀城を起点として至るには、どこに上陸すべきであろうか。当然、ウラジオストック以外にない。たとえば、
 イ、「蝦夷国の西の国界(宮城県南端)〜新潟付近」ーー 二百〜三百里向
 ロ、「新潟付近〜ウラジオストック」ーー 二千里前後(直線ではなく、迂回の可能性あり)
 ハ、「ウラジオストック〜ハンカ湖・ウスリー川」ーー 五百〜千里
 合計ーー 二千七百〜三千三百里となる。

 もとより、これは概算にすぎないけれど、「三千里」という、大約の里数は、“当らずといえども、遠からず”という数値なのである。 わたしは、みずからの「西界読法」を徹底させることによって、「蝦夷国〜靺鞨国」間の主要行路に辿り着くことができた。それは、靺鞨国が、渤海国や中国へと向かう正面玄関。その枢要の地に至るべき、国交の大関(西の国界)であった。
 そして次章にのべるように、縄文時代以来の「蝦夷国〜沿海州(ウラジオストック周辺)」という、一大交通路の歴史を継承するものだったのである。

 “駄目押し”の発見があった。先の「靺鞨使」の拓本(八○ぺージ)を見てほしい。
 第一行が、“見事に”ゆがんでいる。ぶれているではないか。一方は、左側の五行の小字、これは光緒乙未年(一八九五、明治二十八年)に刻入されたものだ。当然ながら、こちらは、スラッと行並びがそろっている。これと比べると、開元二年(七一四)に刻入された、向かって右の三行(字の大きい方)は、全く様子がちがう。
 その上、第三行目の先頭の、例の「記験」の二字を見てほしい。「記」に比べて、「験」が異様に大きいではないか。ちょうど、あの多賀城碑の「西」と「此城」さらに「神亀元年」と同じように。直前の文字と“同質”ではない。
 これは、おそらく「特筆大書」の手法であろう。この熟語は、現在では、単に“強調する”という意味を現わすために使われているだけだけれど、本来は、文字通り、“大きく書く”ことだった。孔子が『春秋』を書くとき、この「特筆大書」を行ったという事跡は著名である。
 とすると、「靺鞨使」碑と多賀城碑と、いずれも同じ、この「特筆大書」という古法に従っていた。今までは見えすぎて、見なかったのである。


(1)なお「偽作説」は、完全に終結したわけではない(たとえば、大和岩雄氏〈序文偽作説〉)。
(2)「崔忻」と「崔訴」のちがいは“避字”(天子等の名を避ける手法)の類か。
(3)これらの点、仙台の会の方々(酒井良樹さん等)の御批判をえて、わたしの分析の諸点を徹底させた。この点、深く謝意を表したい。


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