『真実の東北王朝』目次へ
多賀城碑について 『市民の古代』第八集


古田武彦・古代史コレクション10

第一章 多賀城碑探求

ミネルヴァ書房

古田武彦

 多賀城碑文に歴史の真相あり

 仙台の街はなつかしい。きれいな舗道やふとしたビルの物陰に、青春の思い出がたたずんでいる。敗戦前後、この街を飢えた野犬のように徘徊(はいかい)していた。それが青年時代のわたしだった。
 そういう昔なじみのせいか、この街はしばしば、途方もない想念をわたしにプレゼントしてくれる。 ーー研究上の新発見を。
 あのときも、そうだった。
「多賀城へ行ってみよう」。それがキッカケだった。昭和五十九年十月、今日のように秋晴れの美しい日だった。仙台駅から二十分、仙石線に乗って多賀城駅で降りた。
 駅からかなり離れたところ、広大な多賀城址はひろがり、その中に東北歴史資料館がある。ゆったりと敷地をとった、堂々たる建物だ。
 そこで多賀城碑の見学をお願いした。陸奥の乙女らしい、可愛らしい娘さんが鍵をもって案内して下さった。数分歩くと、古雅な趣をたたえた亭、正方形のお堂の中に、問題の石碑は鎮座していた。
 扉を開(あ)けていただいて、熟視した。熟視してのち、周囲を巡った。巡ってのち、熟視した。熟視したのち、写真に撮った。撮ったのち、熟視した。その間、娘さんは、東北人らしく根気よく、待っていて下さったように思う。“思う”というのは、記憶にないからだ。わたしは夢中だった。何も、眼中になかった。
 来るまでわたしは、たかをくくっていた。「真偽不明」として、辞書(旧版)にもしるされている金石文だ。ちょっとやそっと見たぐらいでは、見当もつくまい。ただ、一応、目に入れておこうか。
 ハッキリ言って、そんな、“ふとどき”な心底(しんてい)だった。いわば、捨て目のつもりだった。 ーーそれが。

「真偽不明どころか、これは、レッキたる本物。それどころか、とてつもない秘密、歴史の真相が刻みこまれているかもしれないぞ」。

 これが、わたしの直観だった。なぜか。一言でいえば、あまりに下手すぎるのだ。その行格が、書風が。たとえば、各行が縦に真っ直ぐならず、ゆがんでいる。終りから二行目、文章としての最終行など、ことにひどい。左にカーブを描いている。逆に、末尾の年月日記載の中央部は、右にぶれている。

「これは変だぞ。偽作にしては、下手すぎる」

多賀城費の拓本

 これが偽らぬ、わたしの心証だった。

 同じく、最初の「里程記載」のところ、
  去 京一千五百里
  去 蝦夷国界一百廿里
  去 常陸国界四百十二里
  去 下野国界二百七十四里
  去 靺鞨国界三千里

 第一字目の「去」は、一応横一線にそろっているものの、第二字目は、まちまちだ。第三行目の「常」、第四行目の「下」など、やけに飛び上がっている。不揃いである。末尾の「里」のところを揃えようとしたのかもしれないけれど、これも、全部揃っているわけではない。

 それに、文章部分の冒頭、

  此城神亀元年

の六字の、“不細工さ加減”はどうだ。他の文面、文字通り、全体の“文字の面つら”とまるで異質なのだ。こんな、不揃いだらけの偽作なんて、ちょっとありにくい。 ーーわたしは、目と鼻をくっつけるようにして、確認・再確認・追確認しつつ、そう思った。
 もちろん、第一印象での「思いこみ」は禁物だ。先入観となるからだ。だが、この場合、先入観は、前からわたしのもっていた「観念」の方だった。
 「どうせ、真偽不明といわれるくらいだから、あやしげなものにきまっている」。
 この観念だった。けれども、今のわたしの目には、「あやしげ」どころではない。本物の彩りと香りが満ちていた。

多賀城碑を祀る覆堂


「真偽判別」に明け暮れた日々

 無頼の学生時代、わたしは一度もここを訪れたことがなかった。学業より、アルバイトの労働と、ひっこもって本を読む方が熱心だった。入学三ヶ月だけで、はるばるあこがれてきた、恩師村岡典嗣(つねつぐ)先生を失ってより、ことにそうだった。だから、というわけではないけれど、ここへ来たことがなかった。要するに、本にだけ酔い痴(し)れて、「物」を見る目が全くそなわっていなかったせいであろう。
 それが、よかったのかもしれぬ。“狎(な)れ”がなかったからだ。新鮮な目で見ることができたのである。わたしは、“なまけ者だった過去”に感謝しなければならないのかもしれぬ。
 わたしは仙台を去ったあと、信州での“落ちこぼれ教師”時代を経(へ)て、神戸に出、親鸞研究に没頭した。三十代だ。それは、一面では、「偽作判別」の修業時代だった、といっていい。なぜなら、親鸞の自筆本や古写本を探究するさい、その基礎となるのは、次の一点だった。

  “これは、偽作ではないか”。

 だって、「偽作」を偽作と知らず、本物と思いこんで史料に使ったら、笑い物。結論は、まちがうにきまっている。だから、その検査、慎重な検証が第一の肝要事だ。
 だが、わたしには、師匠がいなかった。村岡先生はすでに亡(な)い。亡師孤独、自分で、自分の目で、自分の手で、探究するより、他に手はなかったのである。そのため、いろいろの手練手管を学んだ。たとえば、デンシトメーターによる筆跡判別。医学部・理学部・工学部などを歴訪して、発見した方法だった。抜群のきき目があった。
 だが、何より、目。自分の手と自分の目で、実物を見て確認する。それが「始まり」で「終り」だった。これをなまけたら、それこそ一巻の終りだ。
 だが、実物がない場合もあった。たとえば、『歎異抄』。著者は、親鸞の弟子、唯円(ゆいえん)である。が、彼の自筆本はない。あるのは、古写本だけ。一番早いのが蓮如(れんにょ)本だ。室町時代中葉。他はすべて、室町末から江戸時代にかけての後代写本群だった。当然ながら、写本ごとにいろいろ、字面がちがっている。どちらが正しく、どちらが誤写か、それを判別するための実証的な方法、それに没頭した(たとえば、わたしの論文「原始専修念仏運動における親鸞集団の課題」、昭和四十年。『親鸞思想 ーーその史料批判』所収は、その一例だ)。
 例の「倭人伝」、「邪馬壹国」問題も、その一例だった。現在、手もとにある古版本(南宋本)の「邪馬臺国」が、果して著者(陳寿)の自筆本で、「邪馬臺(台)国」であったかどうか、それを知るための手練手管の一つ、それがたとえば、全『三国志』中の、すべての「壹と臺」の検査だったのである。
 こんな心配のいらない世界、それが金石文だ。ここでは、第一史料たる自筆本、最初の筆者の筆癖や行格まで、キッチリと保存されている。よだれの出るような代物だ。だが、その場合にも、肝心の用心が必要。それは「果して本物か、それとも偽物か」、この検査だ。その検査に対して、どうも合格している。わたしには、“世評「真偽不明」”の、この石碑が、そのように今、映じはじめたのであった。

「多賀城碑、偽作説」に異議あり

 たとえば、書の名手、王義之(おうぎし)の書を「偽作」するとしよう。当然、その「偽物」は本物より“下手”なはずである。きまりきったことだ。だって、当の王義之以上の、書の名手が、王義之の書を“模倣”する必要はない。義之以上の、自家の名品を独創すればいい。「偽作者」になりさがる必要はない。それは当然のことだ。
 だが、逆に、あまり下手でも、「偽作者」にはなりにくいのである。いかにも“下手くそ”な習字をぬりたくって、「これは、王義之の真筆だ」と言ってみても、笑われるだけ。誰も信用しないであろう。たとえば、わたしのような拙筆では、「偽作者」になど、到底なれはしないのだ。
 以上は、わたしが、「真偽判別」のための悪戦苦闘の中から学んだ、簡単な真理である。当り前だ。だが、本来、真理とは、当り前のものなのである。
 この当り前の真理からすれば、「多賀城碑、偽作説」は、あやしい。
 その理由をあげてみよう。
 第一。「偽作説」では、これを江戸時代の偽作と考える。なぜなら、「万治(一六五八〜六一)〜寛文(一六六一〜七三)の間」に世に知られた、とされているからである(新井白石『同文通考』)。
 第二。さらに、水戸光圀が、伊達侯に当名碑の存在を告げ、その修復・保存を勧奨したという、有名な逸話から、「伊達側の偽作説」を唱える者が、ことに明治以後、出現した。この場合も、当然“江戸時代、偽作説”だ(たとえば、元禄十二年〈一八九九〉に拓本を撮(と)ったとされる、仙台藩儒者の佐久間洞巖も疑われた)。
 第三。だが、江戸という時代は、各地で盛んに石碑の造立された時代である。これは、現在でも、神社・仏閣等に、「江戸期造立の石碑」なら、叢立して珍しからぬところ。この現状を見ても、察せられるであろう。すなわち、プロの石刻業者が各地に立業していた時代なのである。
 その時代に、プロの「偽作者」が、こんなものを「天平の真作」として、他(ひと)に信ぜさせようとするとは、信じられない。それでは、まるでわたしたちが、自分の習字を指して「王義之の真筆」と称するのと変らない。あまりにも、「偽作の作法」をそなえていないのだ。 ーーこれが、わたしの心証だった。
 案内の娘さんに鍵をしてもらって、館に帰った。早速、館の学芸部の方に、多賀城関係の研究資料・論文等をお願いした。部長の桑原滋郎さんは快く了承され、数多くのコピーを作って下さった。
 その作業の間、館内に常置してある、実物そっくりの石碑(複製)の前にわたしをいざなわれた。そこでわたしは、今現物に接して得た印象を率直にお話した。温厚な、研究者タイプの桑原さんは、いちいちうなずきながら、東北大学考古学科の伊藤信夫さん(教授)や県の教育委員会の永年の調査も「真作説」を支持する方向をしめしていることや、筆跡についても、黒田正典さんの綿密な研究がその“裏付け”をしていることなどを語って下さった。
 コピーはやがてわたしの手に渡された。それらは後年刊行の書物中(1)に収録されたものもあるが、そのときのわたしにとっては、この上なく貴重であった。

 里程記載から得た「本物の心証」

 仙台に帰った。西の平にある梅沢伊勢三さんのお宅に泊めていただくことになっていた。学生時代、日本思想史科の助手をしておられた梅沢さんは、村岡先生亡きあと、ながくわたしの先輩、そして導き手だった。わたしが大学卒業後、信州に去ったあとも、「古田君は、きっと学問に帰ってくる」、そう言いつづけておられた、という。いつも大人(たいじん)の風格をもつ方だった。
「ほう、やっぱり、多賀城碑は本物かねえ。それは、たいしたことだなあ。奈良時代に書かれたものが、そのままある、ということだから。そうだとすれば、これは大変なことですよ」
 梅沢さんの研究対象は、生涯、記・紀(『古事記』『日本書紀』)ひとすじだった。愚直なまで、これに傾注された。だから、金石文などには、一切手を出されない。出されないけれど、ことの意義を理解する力、それはさすがだった。いつものように重厚だった。
 本日の「発見」を報告し終ると、わたしはそそくさと部屋にとじこもった。普段の梅沢さんの書斎が、今夜のわたしの寝室だった。
 わたしには、気になっていたことがあった。それは、里程である。ことに、

 (a) 常陸国界を去る、四百十二里。
 (b) 下野国界を去る、二百七十四里。

 この二行の矛盾が問題の焦点だ。
 先ず、(a)。多賀城から、常陸の北端部、菊田関(勿来なこそ関)までをとってみよう。
 これを(b)と比べてみよう。こちらは、多賀城から、白河関まで、くらいのところである。
 両行程は、ほぼ同じくらいの長さだ(多賀城と行程図参照)。ちょうど、コンパスの支点を「多賀城」において測れば、勿来関も、白河関も、ほぼ同一円周上に当るのである。
 ところが、この石碑では、一方( (a) )が四百里代なのに、他方( (b) )は二百里代。二対一まではいかないものの、一・五対一の比率になっている。
 この点に、偽作説論者の鋭鋒は集中した。
 先ず、田中義成(よしなり)
 明治二十五年十月十五日の『史学会雑誌』に掲載された「多賀城碑考」は、明治以降の偽作説の濫觴(らんしょう)となった。
 先ず、彼は、(b)の「多賀城〜『白河より下野那須郡寄居村へ達する道筋』の間を、「二百九十里余」と算定し、右の石碑の数値は、ほぼ「大差なし」と認定した。
 これに対し、(a)の場合を「真偽の論断」の題目のもとに追求した。その結果、次のように論じた。

常陸風土記の時代即ち和銅年間より弘仁二年までは海道を以て官道となし弘仁二年より以後は山道を以て官道となせしこと明白にて此碑の頃は勿論海道の時代とす。夫れ国界の距離を表識するには、官道の里程を挙ぐべきなり、されば此碑は宜く海道の里程に拠り、二百九十二里(姑(しばら)く今道に拠(より)て云ふ)と記すべきを、延喜式後の山道に拠り、更に常陸へ斗入せる依上の地さへ加へて、四百十二里と記せしは、風土記及び後記と合はず」と帰結した。すなわち、こちら( (a) )も、「二百九十二里」程度のはずだ、というのである。そして右の一文を、
是れ余が断じて此碑を以て偽造となす第一の要点なり。」(傍点、原文のまま)と、明確な「偽造」の論断をのべたのであった。

 この田中義成の論断を受け継いだ人、それは喜田貞吉であった。大正から昭和にかけて、歴史上の諸問題について、各所に鋭い論陣を展開した学者、そして論争の雄をもって一世を風靡(ふうび)した論者、それがこの人であった。
 大正二年、『歴史地理二一巻五号』に発表された論文「陸奥海道駅家の廃置を論じて多賀城碑に及ぶ」が、それである。
 この題名が示しているように、喜田貞吉は先の田中義成の論文に「不足あり」と考えた。義成の場合、「多賀城〜常陸」の間を通過するさい、「海道」によるか、「山道」によるか、ここに最大の焦点がおかれていた。しかし、これとは別に、当時(奈良時代)の関所(国の堺)がどこにあったか。今日、われわれの知る「勿来なこそ関」付近(常陸国)や「白河関」(下野国)とは、ちがっていたのではないか。この疑いである。
 そして彼の得意とする、博引傍証、各種の史料に当り、さまざまの類推・仮説をもうけた結果、結局、いかなるケースを想定してみても、当碑のしるした、(a)四百十二里、(b)二百七十四里、という状況は存在すべき可能性なし。これが、彼の到達した帰結であった。
 彼は次のように記している。
「(義成の論文を挙げたあと)爾来星霜二〇年或は之を真なりとし、或は之を偽なりとし、人各其の見る所によりて言をなすも、未だ積極的に其の真偽を論弁したるものあるを聞かず。ただ学界の趨勢が、其の偽物なることを黙認するに一致せんとするの傾向あるを見るのみ。」
 このようにのべた上で、“積極的な真偽の論弁”として、「駅家の廃置」の変遷問題を詳しく検証し、当碑の里程( (a)と(b) )を“合理的に説明しよう”としたけれども、結局、その不可であることを知り、ついにその「偽物」であることを“積極的に論弁”したのである。
 このような喜田の論証は、当碑偽作説を学界において、一層強固、優勢にしたこと、疑いがない。
 わたしは、今までの探究上、絶えず喜田の先行研究に面接してきた。たとえば、「今上」問題 (2)(親鸞の『教行信証』後序)。たとえば、「釈迦三尊銘文」問題 (3)(聖徳太子没年月日)等。わたしが渾身の力をこめて対象史料にとりくんで後、ふとふりかえると、彼の先行研究がそこにあり、わたしと同じ焦点に着目し(同じ結論ではないものの)、鋭い指摘を行っている、その凛然(りんぜん)たる姿を見たのであった。
 だが、今回はちがった。
 もちろん、この多賀城碑の里程問題に着目した点では、「先行研究」といえよう。けれども、その帰結点は、全く異なっていたのである。
 わたしの判断は次のようだ。

 第一。常陸国(茨城県)の北端、菊田関(勿来関)と下野国(栃木県)の北端部、白河関とが、多賀城から見て、ほぼ等距離の間にあること、それは、誰にでも分かる「事実」だ。田中義成・喜田貞吉が“明らか”にしたように、『続日本紀』や『延喜式』や『風土記』など、いずれを見ても、右の状況に「大異」はない。やはり、当碑の里程記載と合わない。これは、何を意味するか。

白河関跡 真実の東北王朝 多賀城碑探索 古田武彦

 第二。義成や貞吉は、これを「偽物の証拠」と考えた。しかし、わたしは逆だ。「本物の心証」をここに見出す。

 なぜか。もし「江戸期の偽作者」が、仙台近辺(多賀城)でそれを“作った”としよう。当然「仙台〜常陸国(菊田関)」と「仙台〜下野国(白河関近く)」とが、ほぼ“等距離”であること、それは、彼(仙台の偽作者)にとって「常識」だ。なのに、誰が好きこのんで、“いかにも、アンバランス”な記述(刻入)をするだろうか。考えられない。
 なぜなら、「偽作者にとっての根本使命」は、人々に“疑われない”ように努力することにあり、決して、その逆ではないからである。
 当時(江戸時代)の仙台の人、すなわち当碑の見聞者たちにとってもまた、「仙台〜常陸国」「仙台〜下野国」が、ほぼ等距離であること、自明の事実であった。その人々の眼前に、こんな“アンバランスな偽作”を提示するなど、正気の沙汰とは思えないのだ。
 このように考えてみると、やはり、このアンバランスな里程記載には、何か“偽作者らしからぬ匂い”がたちこめているのが感ぜられる。 ーーこれが、わたしの心証であった。
 このような、史料に対する基本をなす「心証」、これは重要だ。決して“馬鹿”にできない。わたしの研究経験は、いつもわたしにこれを教えてきた。
 たとえば、あの高句麗の好太王碑。これに対する「改竄かいざん説」が一世を風摩した時期があった。昭和四十七年以降の十余年間だ。“改竄説をうけ入れることこそ、良心的にして進歩的”、そのように“信ずる”むきすらあった。「古田さんは、何で、反対するのか。皇国史観の信奉者でもないのに」、そういぶかっていた人も、あったという。有名な考古学者すら、わたしに「勧告」してくれたことがあった。
 しかし、わたしには、基本的に“感ずる”ものがあった。それは、次のようだ。

「もし、これが『日本の参謀本部による、改竄』だったとしたら、なぜ、九回(ないし十一回)も出てくる『倭』が、出てくるたびにいつも『惨敗』し、『敗北』しつづけているのか。せめて、最後にでも『勝利』した形にこれを『改竄』しなかったのか。 ーー不審だ」

 おそらく、誰でも一度は感じたはずの、この疑問、これだけでは「論証」にもなりえない、一種の「心証」だけれど、この「心証」が結局、正当だった。そのことを、十余年の論争、中国側(王健群氏等)の報告と論文、そして何よりも現碑の「開放」と「公開」がこれを明示したのであった(「改竄」論者は、まだ論を止めたわけではないけれど、すでにこれに同調する人々は激減したようである)。
 このような研究史上の経験のしめすところ、それは次のようだ。「もっとも単純で、もっとも明確な、人間の感覚、それがすべての研究の出発点である」と。これである。
 そのような、人間の感覚に立つ、当碑に対する「非偽作の心証」、これをわたしは、今回も、終始大切にし通したい、と思う。


 倭人伝里程研究で学んだこと

 「心証」にはあらぬ、それこそ論証の真面目(しんめんもく)、それは「里程問題」だ。
 わたしにとって、この問題は、倭人伝、否、古代史の世界に本格的に参入した、その入口の扉に記された謎、大きな「?」だったのである。
 それは、次の一事だ。「倭人伝に記された、帯方郡から邪馬壹国(女王国)までの里程、その各部分の『部分里程』の合計が、なぜ『総里程』として記された『一万二千余里』と一致しないのか」
 この疑いである。わたしの計算では、「部分里程の総計」は、「一万六百里」になった(「伊都国〜奴国」間の「百余里」は、傍線行程とする)。これでは、「千四百里」不足だ。だが、わたしには、次の一事は金鉄のように、不磨の大原則と思われた。
 
「各部分を、全部足したら、全体になる」

 しかし、ここでは、そうなっていないのだ。なっていないままで、各論者は、自分自分の「邪馬台国」を語っていたのだ。
 語りたい人には、語らせるがよい。その人の勝手だから。けれども、わたしにとって、学問とは、そんなものではない。そこをそうならぬまま、いい加減に書くような人間(『三国志』の著者、陳寿)の書いたものが、この倭人伝なら、およそそんな倭人伝なぞ、基本的に「学問上の対象」にはなりえない。もちろん「虚言症患者」や「誇張癖患者」に対する、医学上、または心理学上の対象というのなら、話は別だけれど。
 そんな“いい加減な作者”の物した“いい加減な作品”を、自分の都合のいい部分(国名や位置など)だけ“抜き出し”て利用する。それは、随筆や小説ならばさもあらばあれ、学問の名には値しない。それがわたしの信条だった。
 この信条から、わたしは出発した。暗中模索の日々の後、簡単な真理がわたしの目を開いた。「まだ、全部足されていないのではないか」
 この疑いだ。部分里程として、各論者が扱ってきたものは、まだ、その“すべて”ではなかったのではないか。わたしはそう考えた。そして倭人伝を熟視し抜いた末、見出したのだ、「未計算部分」を。

 (イ) 方四百余里。(対海国)
 (ロ) 方三百里。(一大国)

周旋島めぐり 多賀城碑 真実の東北王朝 古田武彦

 明白に「里」と記されている。その上、帯方郡から邪馬壹国に向かう、その途中にある。それなのに、従来の論者は、これを計算に入れていなかった。(4)
 おそらく、“これは面積であって、二点間の距離ではない”、そう考えたのであろう。だが、「面積」とは、人間にとって“歩く”ための土地、歩くための対象を意味する。とくに中国人のような「大陸人間」にとっては。“海で行けるから、ただはた目に見て通りすぎただけ”、それなら「面積」を書くには及ぶまい。
 そこで、この「半周」(左図)を計算の中に入れた。「全周」では、もとにもどってしまう。「一辺」や「三辺」では、“中途はんぱ”だ。そこで「半周」を採ったのである。
 すると、ピタリと“合った”のだ。「四百里の二倍」と「三百里の二倍」、合わせて「千四百里」。あの、足らなかった数値がクッキリと浮かび出た。その結果、まさに、

「部分里程の総和は、全里程」

 この根本鉄則が成就されたのである。わたしは倭人伝を信用することができた。それは同時に、古代史世界への第一歩、本格的な参入点となったのであった。
 この計算結果は、ストレートにしめした。「邪馬壹国、博多湾岸とその周辺」の帰結を。なぜなら、部分里程の最後は不弥国、その不弥国は博多湾岸。とすれば、その地点はすなわち、邪馬壹国の入口。玄関だ。「部分里程の終りは、総里程の終り」だからである。
 この帰結を、今回の「吉野ヶ里の発掘」が“裏付け”た。当初期待されたような、「邪馬台国の中心」ではありえなかった。その争いえぬ事実を、墳丘墓の中心甕棺出土の「細剣一本」がしめした。その同類の弥生墓(甕棺等)中、質量とも最も濃密な副葬品をもつ地帯、それはまさに「糸島・博多湾岸とその周辺」すなわち、“筑前中域(糸島郡・福岡市・春日市・太宰府市・筑紫野市・朝倉郡)”以外になかったのだ。
 ここに「計算は成就された」のである。

 先人の研究で残された矛盾

 古代史好きの方には、おそらく周知の(専門の学者は、知って知らぬふりの)、わたしの探究経験を、ことさらここに反芻して記載したのは、他でもない。わたしがはじめて本格的に、倭人伝と対面したときと、同一の研究状況を、再びここに見たからである。
 もちろん、倭人伝の場合、これを「後世の偽作」とする議論があったわけではない。しかし、肝心の中心国名たる「邪馬壹国」を“誤写”、すなわち「後代の書写者の偽伝」と見なす立場、それが一般的だった。いわゆる「邪馬台国」論者の立場がこれである。この一点に対して、わたしの疑問は投ぜられた。論文「邪馬壹国」(『史学雑誌』七八 ー 九、昭和四十四年九月)がこれだった。
 しかし、倭人伝の本格的検証に対面したとき、「部分の総和が全体にならない」ままで、あれこれと、“倭人伝をめぐる論議”がなされていたのである。
 多賀城碑の場合。世間や学界一般(ことに古代東北史学界以外)では、辞書(旧版)のしるす通り、「真偽不明」と思っている人も多い。だが、多賀城址の発掘や筆跡研究によって、これを「真碑」すなわち“後世の偽造に非ず”と見なす見地は、東北大学や宮城県関係の研究者においては、むしろ一般的といっていいであろう。
 だが、田中義成や喜田貞吉といった頑強な偽造論者が最も執着し、詳論した「里程の矛盾」については、今もほとんど“手つかず”のままといっていい。わたしにはそのように見えたのである。
 わたしは、翌日、宮城県の県立図書館に行った。その郷土資料室で、さらに多賀城碑関係の資料を探った。そのさい、前日、東北歴史資料館でコピーしていただいていた、「多賀城碑関係文献目録」(熊谷公男・吉沢幹男編。『宮城県多賀城跡調査研究所・研究紀要I 』。今回の『多賀城碑 ーーその謎を解く』に収録)
 これが何よりの“導き”になったのだけれど、それと共にすばらしい“協力者”をえた。右の資料室の菅野(かんの)かつみさんだった。わたしが、「この資料も、あの資料も」と、次々とくり出す要望を、全くいやがらず、次々と探し出し、コピーの求めに応じて下さったのである。その時見つけ出せなかったものは、「後日コピーしてお送りしますから」と言われ、その約束は確実に果された。わたしは、陸奥に来て、無類の幸せに会うたようであった。
 これらのおびただしいコピー群を検討した末、わたしは次の研究状況を確認した。 ーー「当碑の信憑性は、考古学や筆跡学の力で確認されてきたものの、『偽造論者』たちの指摘する、肝心の矛盾は放置されたまま。すなわち、歴史学の史料として、本格的な検証は、これからである」と。

 方向のない里程

 当碑の「里程記事」には、大きな問題がある。 ーーわたしには、そのように見えた。それは「方向」がないことだ。
 倭人伝に触れた人なら、周知のように、その里程記事には、必ず「方向と里程」が書かれている。たとえば、

 (A) 東南陸行、五百里、伊都国に到る。(起点、末盧国)
 (B) 東南奴国に至ること、百里。(起点、伊都国)

のように。これは当然だ。ある一点を「起点」として「何里」といったとしても、どちらの方向へ、それだけ行くのか、それこそ「五里霧中」、迷い子になってしまう他ないではないか。“一定の起点から、一定の方向へ、一定の距離(里程)をすすむ”、これではじめて、一定の地点に到着すべき「里程記事」としての“体裁”がととのうのである。
 しかし、ここには、その「方向指示」がない。ないままで、従来の論者は「勿来関」や「白河関」の付近を“到着点”と「仮定」し、そこまでの「里程」に“合わぬ”と難じてきたのだ。
 これに対して、論者は弁ずるであろう。“「国界」とあるではないか”と。「国界」とは、“国の堺”だ。多賀城に一番近い「国の堺」、それは、常陸国の場合、勿来関、下野国の場合、白河関となろう。それが時代によって、南あるいは北に寄っていた可能性は考慮するにせよ、要するに、それだけのことだ。 ーーこれが、従来の論者の理路だった。義成にせよ、貞吉にせよ、この点、変りはなかった。もちろん、新井白石・伊藤東涯(とうがい)等の江戸時代の研究者たちも、この点、変りはなかった。だが、これでいいのだろうか。
「多賀城に一番近い国の堺」というのは、当碑の碑面にそう書いてあるわけではない。論者の主観だ。率直にいえば、一個の「仮説」なのである。
 もし、その仮説で、史料全体が的確に理解できればいい。スッキリとすれば、誰にも文句はない。しかし、今はちがう。スッキリしないのだ。重大な矛盾に衝突しているのだ。だとすれば、既存の仮定をいったん捨てて、もう一度根本から考え直す。これがすじではないか。わたしはそう思う。
 では、本当に、当碑には「方向指示」はないか。そう思って見ると、あった。文字通り、特筆大書してあったのである。 ーー「西」の一字だ。
 この一字は、従来の研究史上、最も“扱いかね”ていた。いわば、「無用の長物」視されてきていたのである。研究史上、江戸時代の論者から、今回の『多賀城碑 ーーその謎を解くーー』まで、通視してみて、変るところがない。
 いろいろ論じてはみるものの、結局「当碑は西に向いて建っていたから、『西』と書いてあるのだろう」といった、一種“あいまい”な結論で、一応の打ち切りとする他はない。そういった扱いなのである。
 しかし、この「結論」には、疑問がある。それは、次のようだ。

 第一。当碑が本来(八世紀の建碑当時)、どちらを向いて建っていたか、全く“証拠”はない。室町末の永禄年間(一五五八〜七〇)の頃、農夫が土中から発掘したとされる(『文禄清談』巻第四)が、その後、放置されていた当碑が江戸時代になり(水戸側の勧奨にもとづき)伊達側によって再建された。そのさい、“西に向けて”再置されたにすぎぬからである(現在、碑亭の上部に「東西南北」の各方向が記され、当碑の正面は「西」に向かっているけれど、これは「再建時の解釈」をしめすにすぎぬ。従ってここから論証するのは、危険である)。

 第二。もし当碑が“西に向かって建っていたから、『西』と特記した”としよう。それなら、他のいかなる石碑も、東西南北等、いずれかの方向を向いて建てられていないものはありえないから、それぞれ「東」とか「南」とか、各種の方向記載がなければならぬ。しかし、それはない(時として存するものは、むしろ「当碑の模倣」のようである (5)
 すなわち、一見“穏当”に見える、この通解は、史料解読上、最も肝要な「表記上の先例」をもっていないのである。



 すべては「西」の国界

 では、この「西」という一字の特筆大書、そのになう意味は何か。
 このように、新たに問うとき、新たな回答が立ち現われる。 ーー「下記の『里程記事』に欠けているかに見えた、『方向記載』がこれである」と。
 先ず、冒頭の、
  京を去る一千五百里。

 この「京」への「里程記事」の「方向」が「西」であること、これは論ずるまでもない。だが、ここでしめされていること、それは多賀城から見て「京」が、「四分法」で「西」と意識され、表記されていることだ。いいかえれば、津軽(青森県)や北海道の方向は「東」と見なされているのである。現今の「JR日本」といった用法と共通しよう。
 次の、
  蝦夷の国界を去る、一百廿里。

 ここにはじめて「国界」という、当碑の使用する重要な概念が現われる。この「国界」が「西の国界」という意味であることは、明らかだ。なぜなら、「蝦夷国全体」が、多賀城から見て「西」に存在するはずはないからである。この「蝦夷国」とは、今の東北地方の大半、また北海道(渡島おしまの蝦夷)等を指す概念であること、後に詳論する通りだ。
 従って、多賀城から「一百廿里」の近きにある「蝦夷国界」が、その「西の国界」であること、疑いをいれないであろう。
 この事実は重大だ。なぜなら、上に特筆大書された「西」の一字が、単に“当碑がどちらを向いて建っていたか”という、建碑当時なら、その前にたたずめば「自明」のことを“馬鹿丁寧に”特記した、そんな、一種“間の抜けた”表記ではなく、下記の文章内容の“解し方”を指示するという、重大な任務をになうていることを示しているからである(この「蝦夷国界」問題は、再論する)。
 以上のような分析は、おのずから次の肝心のテーマを指し示す。

「『常陸の国界』とは、“常陸の西の国界”を指し示し、『下野の国界』とは、“下野の西の国界”を指し示す」

 これだ。従来の論者はすべて、これを「常陸のの国界」(勿来関)、「下野のの国界」(白河関、付近)として“計算”し、“論難”していたのであった。
 けれども「常陸国と下野国は、東辺(東北地方側)こそ、ほぼ横一線にそろっているものの、西辺(京の側)は、大きく段差がある。この点、現在の茨城県(常陸)と栃木県(下野)の形状を見ても、大略はうかがえよう。
 しかも、もう一つ、見のがすことのできぬ問題がある。それは、「東海道」と「東山道」の問題だ。
 のちに詳述するように、当碑の建碑者たる、藤原恵美朝臣朝葛*(あさかり)が「東海・東山節度使」を名乗っているように、この二概念が当碑に表現されていることは、見のがしえない。その東海道が武蔵・下総(東京湾岸)を通過して「常陸の国界」に至り、東山道が信濃・上野(碓氷峠越え)を通過して「下野の国界」に至っていること、周知のごとくである。
 従って、前者は古河(こが)・境・取手(とりで)等の間が“常陸の西の国界の通過点”に当り、後者は足利・藤岡等の間が“下野の西の国界の通過点”に当っていたこともまた、知られている。
 さらに、もう一つの問題がある。
 それは、前者の場合、東(多賀城方面)から“西下してくる場合、「海路」の存在することである。「菊田関」から、常陸国の東岸を南下”して「鹿島」に至り、そこから西進して、先記の「古河〜取手等」の間に至るという、このルートである。「鹿島詣で」のもつ、宗教的・政治的重要性から見れば、決して無視できぬルートであろう。これは「常陸の西の国界」に至る最長のルートとなろう。
 以上、いずれとの断案は許されぬものの、確実なことは、次の一点だ。“「国界」をもって、「西の国界」と解した場合、「常陸の西の国界」と「下野の西の国界」とでは、かなりの、「里程の長短」がある。すなわち、当碑の「四百十二里」と「二百七十四里」との落差を「ありえぬこと」とは断じがたくなってくる”。この一事である。

朝葛*(あさかり)の葛*は、けもの編に葛。JIS第三水準ユニコード5366

 起点は京にあり

 以上の分析に対して、論者は次の疑問をもつかもしれぬ。「なぜ、多賀城から“もっとも遠い”『西の国界』との距離をしめす必要があるのか」と。
 これに答えよう。
 第一に、当碑は、位置上の原点としては、多賀城の地がこれに当ること、当然だ。だが、大義名分上の原点はこれと異なり、「京」(奈良京)であること、これまた当然である。第一行目に「京」との間の里程を先ずしめしたのは、これをしめす。
 その「京」から見て、“最も近い”「国界」、それが、常陸・下野、各国の「西の国界」であること、疑う余地がない。すなわち、従来の論者は、この根本事実を忘れ、「多賀城中心の視点」にのみ、束縛されていたのではなかろうか。
 第二に、右は、二つの視点(京中心と、多賀城中心)の、いずれを採るか、の問題だ。いずれも可能、というのが公平な判断であろう。
 しかし、問題の核心は、次の二点だ。
 (A) 「多賀城中心」のみの視点では、特筆大書された「西」の一字を、単なる「欠字」、さしたる意義をもたぬ文字と解する他ないこと。
 (B) 「四百十二里」と「二百七十四里」の大差を“説明”すべき、有効な方法がついに見出せなかったこと(そのため、「偽造説」へと“逃避”することとなったのである)。
 これに反し、「京中心」の新視点から、右に対して解明すべき道が開けたのである。

多賀城と国界行程図
古田説による 多賀城と国界行程図 真実の東北王朝 古田武彦



 蝦夷国内に多賀城はあった

 道は開けた。けれども、まだ終着ではない。残されている重要問題、それは「蝦夷国界」問題だ。
 この「蝦夷国界」を、一関(岩手県南辺)と解したのは、新井白石であった。
 「多賀城壷の碑に蝦夷国界をさる事、百二十里とあるは六丁一里の里数を以相考れは、此一の関はいにしへの蝦夷の国界にて関所ありけるなるへし」(『北海随筆』)。

 さらに「桃生ものう郡」(宮城県北辺)と見なすものもある。
 「蝦夷国界一二〇里は今道二〇里に准ずれば、蓋今の桃生郡の辺皆蝦夷国界にして当時其隣接咫尺たるや計り知るべし」(山田聯『多賀城修造碑面考』文化年間〈一八〇四〜一八〉)
 「多賀城碑の一二〇里は今の桃生郡の辺なり」(林子平『三国通覧』天明六年〈一七八六〉)
 また「衣川・一関」の間(岩手県)とするもの。「去蝦夷国界一二〇里、行程凡二日、衣川一の関に当る。かくて今の京の始つ方も、衣川限りにて、夫より奥は蝦夷の地成けんと、是は能其里程に称ふと云ふへし」(鍋田三善『磐城志』文政九年〈一八二六〉)

 右を要するに、「宮城県北辺〜岩手県南辺」の間を「蝦夷の国界」と解すること、従来の「通説」であり、今日に及んでいるようである(右の事例は、『多賀城碑 ーーその謎を解く』にも掲載)。
 しかし、わたしはこれを「否」とする。
 多賀城以西、「宮城県南辺から福島県にかけて」の間に、「蝦夷の国界」を「前提」している。これが当碑の所述、そのように見なすのである。 ーーなぜか。
 従来説の場合、多賀城は「陸奥国」の中にある、と考える。「蝦夷国」を岩手県以東にありとし、「常陸国・下野国」を関東におく以上、その中間に在り、と見なす他ないからである。
 けれども、問題は、この「陸奥国」なる国名が、当碑中に一切出現しないこと、この点だ。しかも、この国名は多賀城の居域、いわば、当碑中の「中心国名」だ。それがないのに、読む側で“勝手に補って”読む、とは。金石文などの第一史料を読むさいの、正当な方法ではない。わたしは、そう思う。
 たとえば、倭人伝でも、そこにない国名を読解者が“勝手に補って”読むとしたら、誰が納得するだろうか。考えられない。しかし、当碑に関する従来の読解は、その方法に依っていたのである。
 しかし、論者はいうかもしれぬ。「『続日本紀しょくにほんぎ』には、陸奥国という国名が出ているではないか」と。
 これに対してわたしは、次のように答えよう。「金石文は、それ自身で読むことができる、そのように書かれているはずだ。他の本、しかも、その金石文よりあとにできた本の知識をもとにして読むものではない」と。
 では、どうしたらいいか。その答は一つ、わたしにはそう思われる。

 「蝦夷国界を去る、百二十里」
 
 この「蝦夷の西の国界」は、文字通り、「多賀城の西にある」、この回答である。宮城県の北辺でも、南辺でも、「蝦夷の西の国界」であることにちがいはないけれど、

 (A) 多賀城は「蝦夷国」の外、「陸奥国」の中にあった。(従来説)
 (B) 多賀城は「蝦夷国」の中にあった。(わたしの解読)

 このちがいだ。そしてこのちがいは、東北の古代史の実相を明らかにすべき、その鍵を秘めているのである。
 以上の解読をまとめてみよう。

  (a) 常陸の国を去る、四百十二里。
  (b) 下野の国を去る、二百七十四里。

 この(a),(b)の「始発点」は、共に「蝦夷の西の国界」である。従って、

  (a)' 「多賀城〜常陸の西の国界」 ーー百二十里プラス四百十二里  (計)五百三十二里
  (b)' 「多賀城〜下野の西の国界」 ーー百二十里プラス二百七十四里 (計)三百九十四里

 右が、それぞれの所定里程の計算である。


 古代の城柵もすべて蝦夷国内にあり

 このような、わたしの分析に対する“裏付け”、それをわたしは次のような地図から“確信”することとなった。(下図参照)

東北の諸城柵 多賀城と古代東北(宮城県文化財保護協会発行)より作図 古田武彦 真実の東北王朝

 ここには、「東北の諸城柵」の分布が図示されている。

(一) 奥羽山脈の東側(太平洋側)、南から北に。
(1).郡山遺跡(八世紀前半以前)
(2).多賀城(同右)
(3).桃生ものう城(八世紀後半)
(4).城生じょうの遺跡(八世紀前半以前)
(5).名生館みようだて遺跡(同右)
(6).宮沢遺跡(八世紀後半)
(7).伊治これはる城(八世紀後半)
(8).胆沢いさわ城(九世紀初頭)
(9).徳丹とくたん城(九世紀初頭)
(10).志波しわ城(同右)

(二) 奥羽山脈の西側(日本海側)の東北地方。
(11).城輪柵きのわのさく遺跡(九世紀初頭)
(12).払田柵ほつたのさく遺跡(雄勝城か)(八世紀後半)
(13).秋田城(出羽柵)(八世紀前半以前)

(三) 奥羽山脈の西側(日本海側)の北陸地方。
(14).渟足柵(ぬたりのさく推定地)(八世紀前半以前)
(15).磐舟柵(同右)(同右)

 右に分布する、各「城柵」は、いかなる性格のものであろうか。それは、一言でいえば、

「大和朝廷側が、敵地(蝦夷国)のさ中に挿(さ)し入れた『侵略の拠点』にして、軍事上、政治上の『征圧の中心地』」

だったのではあるまいか。とすれば、それらはすべて「蝦夷国内」にあるべきものである。事実、右の(1).〜(13).の大半は(多賀城等を除き)すべて「蝦夷国内」である。また(14).,(15).も、「北の蝦夷」とされる、「越の蝦夷国」に属している。
 これらに対して、今問題の「多賀城」などだけが、「蝦夷国外」だとすれば、“不整合”この上ない。
 しかし、今わたしのしめした新しい分析に従えば、右の(1).〜(15).すべてが「蝦夷国内」となり、“統一した理解”がえられるのである。

秋田城(出羽柵)跡にある護国神社

 先学の遺影の前で

 ふと、現(うつつ)に返った。ところは、梅沢さんのお家。いつもの書斎である。だが、様子はすっかりちがっている。
 わたしの眼前には、梅沢さんの温顔がある。白い布の張られた台の上の写真である。その下、わたしの向かい側に、奥様の喪服姿。
 そうだ。先輩の原田隆吉さんの奥様、夏子さん(国文科の先輩)からのお知らせで、かけつけた。平成元年十月六日の夕方、梅沢さんは亡くなられた。まだまだ、どっしりと存在しつづけてくださっていてほしかった。それだけに、ショックだった。

  はるかなるものの確かさ、冬銀河 
  冥(め)つむれば市松模様、死の荘厳

 学者としての生涯と共に、俳人として一栖(いつせい)の号をもつ、梅沢さんの作品であった。この部屋で、多賀城碑の探究に取り組みはじめてより、ようやく五年の歳月を経ていたのである。

(1) 安倍辰夫・平川南編、『多賀城碑 ーーその謎を解くーー』雄山閣出版、平成元年刊
 (2) 古田『親驚思想 ーーその史料批判』(冨山房刊)参照
 (3) 市民の古代研究会編『家永三郎・古田武彦 ーー聖徳大子論争』新泉社、平成元年刊
 (4) ただ、津堅房明・房弘氏「耶馬台国への道 ーーその地理的考察ーー 上・下」(『歴史地理』九十一 ー 三・四、昭和四十一年)に、島めぐり読法により、近畿に至る読解がある。
 (5) 近畿等にある(たとえば、天堤〈あまづつみ大阪府和泉市万町〉。ただし成立年時不明である)。


『真実の東北王朝』目次へ

多賀城碑について 『市民の古代』第八集

ホームページへ


新古代学の扉 インターネット事務局 E-mailは、ここから

Created & Maintaince by“ Yukio Yokota ”