古田武彦著作集

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2012年1月刊行 古田武彦・古代史コレクション9

資料 I  著作一覧資料II  論争一覧 付

古代は沈黙せず

ミネルヴァ書房

古田武彦

2013.10.校正 正誤表(服部和夫氏校正、有り難うございます。)

備  考
145 8 『日本古代社会の基礎造』 『日本古代社会の基礎造』 駸々堂版も同様
338 後3 や物理学  数や物理学 駸々堂版も同様

 

始めの数字は、目次です。「はしがきーー復刊にあたって」、および「あとがき」は下にあります。

【頁】【目 次】

i はしがきーー復刊にあたって

001 第一篇 出雲風土記の中の古代公害病 --その自然科学的研究

〈解題〉出雲風土記は、幾多の珠玉を蔵した、古代の根本史料の宝庫である。その一つが、「古代公害病」に関すると思われる一節だ。この点を確かめるための方法、それが自然科学的な地質検査だった。公衆衛生学、考古学の研究者と共同して、現地(斐伊川上流、三沢)において土壌採取を行ったのである。そのさい、現地の方々の深い御理解と御協力をえた。深く感謝したい。蛍光X線検査(資料III参照)も、専門家の御協力をえた。(未発表)

029 第二篇 「法華義疏」の史料批判 --その史料科学的研究

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〈解題〉日本の古代史世界において、最古の自筆原本がある。「法華義疏」と呼ばれる。「聖徳太子の真筆草稿本であり、法隆寺に伝来せられたもの」 ーーこれが「定説」的見地であった(明治維新後、皇室に献上)。
     この見地に対して疑問をいだき、史料批判と共に、自然科学的研究方法でこれに対面した。顕微鏡及び電子顕微鏡写真の撮影並びに観察である。その結果、予想もせぬ幾多の事実を検証するに至ったのである。(未発表)

109 第三篇 金印の論理 --大谷光男氏に寄せて

〈解題〉日本古代史上に横たわる最初の試金石、それは志賀島出土の金印である。中国は、金属器文明の成立によって、日本列島に対して絶大な影響力をもちはじめる。これはその歴史的記念物をなす。その上、明確な年時が判明しているのである。
     『研究史金印』(吉川弘文館)によって著名な研究者、大谷光男氏は早くから「邪馬壹国」論に関心をしめされた。その論点にお答えすると共に、併せて金印問題の本質に論及した。(未発表)

145 第四篇 里程批判 --原島礼二氏に答える

〈解題〉里程問題は、倭人伝研究上、不可避の通路である。全三国志中、唯一の、里程列伝というべき性格をもつからである。この一点を回避してきたこと、そこにも従来の「邪馬台国」研究混迷の一因があったようである。
     この問題提起に対し、古代史学界の中から反応がもたらされた。『日本古代社会の基礎構造』(未來社)以来、多くの論作を学界に提供してこられた原島礼二氏である。これにお答えし、当問題の本質に論及した。(未発表)

147    第一章 短里問題
187    第二章 東治問題

209 第五篇 古典研究の根本問題 --千歳竜彦氏に寄せて

〈解題〉わずか一字のちがい、それが歴史像を一変させる。倭人伝の「壹」、出雲風土記の「宮」(『よみがえる卑弥呼』参照)等がその例だった。そして「日出づる処の天子」で有名な隋書の「イ妥たい」と「倭」、ここにも“つまづき”の石があった。さらにそれは、世界の史書中の最高峰たる、史記に対する本文批判にまで波及する。若き研究者、千歳竜彦氏の好論をえて、古典研究の基礎をなす、枢要問題を詳論した。(未発表)

235 第六篇 法隆寺釈迦三尊の史料研究 --光背銘文をめぐって

〈解題〉日本古代史上、金石文の白眉をなすもの、それは法隆寺釈迦三尊の光背銘である。全文一九六字、典雅なる行格をもつ。それは「上宮法皇」の逝去の直後、造文された。従来は、これをもって聖徳太子にかかわる遺文としてきた。しかしこれを精視すれば、矛盾百出する。よってこれに史料批判を加え、その結果、近畿天皇家中心の一元史観の立場からは、処理し切れぬ問題点を指摘した。
    (「仏教史学研究」第二十六巻第二号、昭和五十九年)

279 第七篇 史料科学の方法と展望

〈解題〉文献に対する史料科学的研究、それは未知の広大な分野である。たとえば、料紙に対する顕微鏡写真及び電子顕微鏡写真による検査、また筆跡の料墨に対するデンシトメーターによる検証等、新たな領域に対する研究がこれだ。昭和三十年代を通じ、親鸞関係史料の研究において開発しえた諸方法を、具体的に一々例示し、もってひろく一般の研究者の応用のために供せんとしたものである。
    (「古文書研究」第四号、昭和四十五年十月)

305 第八篇 記・紀批判の方法 --坂田隆氏の問いに答える

〈解題〉学問にとって、致命的な一線、それは方法である。日本の代表的な古典、古事記・日本書紀に対しても、どんな方法でこれを解読するか、それがキーポイントだ。『盗まれた神話』は、戦後史学の「方法」に対する批判、それを根本とした。この点、正面から受けとめ、「方法」としてこの書に対する批判をしめされたもの、それが坂田隆氏の論文だ。これに対する応答が本稿である。
  (仏教大学「鷹陵史学」第九号、昭和五十八年)

343 資料 I  著作一覧

351 資料II  論争一覧

363 資料III、蛍光X線による土壌分析

395 あとがき

397 日本の生きた歴史(九) ーー新・俾弥呼論

399      第一  新・俾弥呼論
404      第二 中世のギリシヤ神話
409      第三 金印の旗
414      資料 荒吐神要源抄

1〜7 人名・事項・地名索引

       *本書は『古代は沈黙せず』(駸々堂出版、一九八八年)を底本とし、「はしがき」と「日本の生きた歴史(九)」を新たに加えたものである。なお、本文中に出てくる参照ぺージには適宜修正を加えた。

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古田武彦・古代史コレクション9

『古代は沈黙せず』
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2012年 1 月10日 初版第1刷発行

 著 者 古 田 武 彦

 発行者 杉 田 敬 三

 印刷社 江 戸 宏 介

 発行所 株式会社 ミネルヴァ書房

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© 古田武彦, 2012    共同印刷工業・藤沢製本

ISBN978-4-623-06057-3

   Printed in Japan


はしがき ーー復刊にあたって

          一

 「学界は沈黙する。」
 これが日本の学界のしめした「二十年の姿」である。たとえば、「法華義疏」の真筆本に接し、子細に検証させていただいたのは、昭和六十一年(一九八六)十月十七日、ところは京都御所であった。
 その結果、意外にも、第一巻右端下部が鋭利な刃物で切り取られている事実を「発見」した。従来の、いずれの学術報告にも、その事実は知られていなかったのである。
 明確なカラー写真と電子顕微鏡写真を添えてこれを発表したのが、当本所収の「『法華義疏』の史料批判 ーーその史料科学的研究」だ。
 冒頭に明確な写真がしめされているうえ、第四巻右端下部の“不思議な”「二つの黒点」が削り去られている事実をしめした。このテーマも、かつて報告されたことがなかった。この「法華義疏」のもつ、本来の姿。そして原筆者ないし原所有者を“知る”上で、不可欠の学問的事実の報告であった。
 当本は一九八八年六月十日に出版された。すでに現在(二〇一一年)まで二十三年を経ている。しかし、学界は一切この事実とこの報告を「見ず」「知らなかった」かのごとき「擬態」をとってきた。
 もちろん、その間、次々と法隆寺関係の「専門書」も「学術誌」も、出版し、公表されている。しかし、一切、「古田の報告はなかった」という“ていさい”を、いつもとってきているのである。
 「一般書」も、右と“歩調を合わせ”ている。たとえば『東アジアの古代文化』一三五号(二〇〇八年春)中の論稿(石原秀晃氏)の一稿「法隆寺金堂釈迦像は火難を免れたか」なども、そのささやかな一例にすぎぬであろう(上城誠氏の御教示による)。
 このような、日本の古代史界の現況は、一体何を“意味”するのであろうか。

         二

 「都合の悪い指摘は、これを一切カットして“なかった”こととする」。
 今年(二〇一一)の「三・一一」によって明らかにされた、日本の“権威ある”学界の姿がある。すでに“心ある研究者”が警告しつづけてきた、原発装置のもつ「危険性」を、「想定外」としたうえ、「原発の安全性」が、絶えず公的にPRされつづけてきていたのである。日本国民は、すでにそれを知った。
 同じく、この「法華義疏」問題でも、ひたすら「古田の報告は、なかった」こととして、この二十数年を経てきていたのである。
 その結果、法隆寺の「釈迦三尊」の光背銘に存在する「九州年号」(「法興」)に関する「学問的論争」もまた、一切行なわれることがなかった。
 今回のミネルヴァ書房からの復刊本の刊行は、日本の学界と読書界に絶大な意義をもつであろう。

  平成二十三年十一月三日
                     古田武彦


あとがき

 人間とは歴史的存在である。いかなる人も忽然(こつぜん)として地上に“発生”したはずはない。必ず、悠久なる歴史を双肩に負うて、この世に生をうけたのだ。だから、己が存在に目覚めはじめたとき、その負うた歴史を問いはじめるのである。
 敗戦後、何度か「古代史ブーム」が唱えられては、消えていった。 ーーではもう、謎は解明されたか。逆だ。まだ解明は緒についたばかり。一面暗闇の中で、ようやく足もとを照らす、小さな灯りを手にしただけ。わたしにはそう思われるのである。
 たとえば、大地。それは歴史的大地だ。いかなる繁華・絢欄(けんらん)の近代的都会も、あるいは古墳期、あるいは弥生期、あるいは縄文・旧石器期に形成された土壌の上に立っている。そしてその土壌は、各時代の“忘れざる記憶”を厳乎(げんこ)として秘めているのである。本書冒頭の、蛍光X線による土壌検査など、新たな学問領域への扉を示唆したものにすぎぬ。
 たとえば、文献。諸大家の論定によって、周知となったところ、その「知識」への安住が、いかに「後生」にとって危険か。わたしは法華疏(いわゆる「法華義疏」)に対する史料科学的探究の中で、この一事に思いをいたし、慄然(りつぜん)とせざるをえなかったのである。かつて、三十歳代半ば、親鸞の教行信証坂東本(自筆本)に対して為しえざりしところ(電子顕微鏡写真の撮影)、今回はこの最古の自筆本(法華疏)に対してようやく果しえたのである。旧稿(「史料科学の方法と展望」)を新たに読みかえし、三十年になんなんとする歳月を思い、凝然たる感慨に沈んだことを告白したい。
 ただひとり、孤立の道を歩んできた、たよりなきわたしに対し、いつも恩師・先達・知己が現われて、その行く手を導いてくれたのである。何たる運命の奇遇であろうか。
 今回、書肆の求めに応じて「著作・論争一覧」の稿をまとめたとき、わたしは痛感した。次々と論争者が立ち現われ、いつもわたしに新たな発見をもたらしてくれたことを。思えば、この方々は、表面は「敵対者」、その真実は「無二の協力者」、これが、ことの真相なのではあるまいか。
 ともあれ、学界全般の“無視”あるいは“軽視”、わたしはそれを精神の糧として、さらに新たなる探究の歩をすすめてきた。いわく「埼玉稲荷山や千葉稲荷台の鉄剣銘文」、いわく「日出づる処の天子、云々」、いわく「旧唐書の倭国伝と日本伝」、これら日本古代史の脊柱を左右すべき根本問題、これに対して「採択せず」「論争せず」「相手にせず」の三手法をもって、学界は「定説」の位置を保全してきたのである。これも、ふりかえれば、探究意欲の源泉、深き学恩としたい。
 他面、曙光がある。東京や大阪、また下関、九州、さらに仙台、青森と、読者の会の方々がそれぞれ鋭く深い研究を物しはじめられたことである(「市民の古代」等)。わたしはその刺激をうけ、批正をうけて新たな領域へと目指す。
 「この世にありしとも覚えず」 ーーわたしはいつもこの言葉をつぶやき、残された生を探究の朝夕にさらしつくしている。

     一九八八年三月三十一日

                古田武彦


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