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第三章 九州王朝の風土記 1   へ


よみがえる九州王朝 幻の筑紫舞 角川選書

第三章 九州王朝の風土記 1

古田武彦

 これまでは、中国史料の分析だった。中国の史書にしるされた倭国の記事を理解する上で、従来のような近畿天皇家一元主義の立場から見たのではあまりにも矛盾がある。こじつけが多すぎる。これに対して九州王朝という一個の仮説を立てたとき、それらの矛盾は解消する。人間の理性に納得できる形で、三〜七世紀の中国史料が理解できる。それがわたしの基本の立場だった。
 今度は日本側の史料だ。日本列島の中で産出された史料についても同じことがいえる。これを近畿天皇家一元主義の目で見たのでは、解きがたい幾多の矛盾がある。どうしてもこじつけになってしまう。
 ところがこれに反し、九州王朝という新視点を立てるとき、それらは何の不思議でもなくなってしまう。その事実を次にしめしてみたい。それが「二つの九州風土記」問題である。
    ※
 風土記には、少なくとも二種類ある。これは井上通泰氏以来、風土記研究史上、著名のテーマだった(井上『肥前風土記新考』『豊後風土記新考』『西海道風土記逸文新考』等)。甲類・乙類、その他の第三類、という区別を立て、これらはそれぞれ「霊亀れいき元年(七一五)より養老ようろう四年(七二〇)までの間の撰 ーー甲類」「日本紀奏上(七二〇)以後、漢風諡号(おくりな)制定(およそ孝謙こうけん天皇の御代〈七四九〜七五八〉)以前の撰 ーー乙類」「漢風論を用ゐ、且つ平安時代に入ってからの撰 ーーその他の第三類」という成立であろうとされた。
 これに対して批判されたのが坂本太郎氏である。「九州風土記補考」(『大化改新の研究』所収)の中で、氏らしい穏健・周密の吟味を右の井上説に対して加えられ、右の第三類は第一類(甲類)の一部と見なすべきであり、その第一類と第二類(乙類)の時代順は、井上氏の立てられたのとは逆であり、第二類が先、第一類が後である、とされた。そして第二類は「第一類よりも早く、風土記撰修の時代として考へ得べき最も早き時代に係るもの」とし、第一類は「天平てんぴょう四年(七三二)より天平宝字ほうじ三年(七五九)に至る間」の成立、とされたのである。
 この坂本氏の先後判定自体は、その後の研究者にほぼうけ入れられたようである。近年この問題に対して積極的な論稿を次々に提起された田中卓氏も、この坂本氏の先後判定については疑っておられない(「九州風土記の成立 ーー特にいはゆる乙類風土記について」「肥前風土記の成立 ーー 九州風土記(甲類)撰述の一考察」『日本古典の研究』所収)。ただそれぞれの時期について、乙類を「天平四年(七三二)以降、恐らくは天平宝字年間(七五七〜七六五)」と推定し、甲類を「延喜えんぎ十八年(九一八)以後、天慶てんぎょう六年(九四三)以前」と推定された。
 また岩波古典文学大系本の『風土記』の校訂を行われた秋本吉郎氏にも、幾多の風土記研究の論文がある(古典文学大系本の解題参照)。
 けれども、このような研究史の詳細に立ち入るのは、今の目的ではない。また右の各論文中に提出された個々の論点については、学術論文をもって再吟味させていただく機会があるであろう。
 今はこの問題に対して、従来ほとんど関心のなかったと思われる一般の読者の面前でズバリ問題の本質に切りこんでゆこう。それによってこの問題の、研究史上の渋滞の理由、その根源をしめすことができるであろうから。
    ※
 風土記の場合、『古事記』『日本書紀』のように完形は残されていない。まとまった形でかなりまとまった量残されているのは、『常陸ひたち国風土記』『出雲いずも国風土記』『播磨はりま国風土記』『豊後ぶんご国風土記』『肥前ひぜん国風土記』の五つの風土記であり、他は残欠の形で諸国にわたって遺存している。これはたとえば右の古典大系本の目次をくってみても、一目瞭然(りようぜん)である。
 ところで、「二種類の風土記」といった、その二種類を一番端的にしめすのは、“行政単位”だ。通常全国の風土記は「郡」が基本単位となって書かれている。
 「意宇の郡(こおり)。郷(さと)は一十一。(こざと)は、卅三、余戸(あまるべ)は一、駅家(うまや)は三、神戸(かむべ)は三、里は六、なり」(『出雲国風土記』意宇郡)
といった風に。そして九州にもまた同じく、「郡」を基本単位とする書式で書かれている、一連の風土記がある。
 「日田ひた 。郷は五所、里は一十四、駅は一所なり」(『筑後国風土記』日田郡)
といった風に。ここまでは何の不思議もない。
 不思議なのはその次だ。九州に限って、これとは異なった「県」を基本単位とする一群の風土記が別に見出されるのである。
 この状況を一番ハッキリ対照的にしめす例をあげよう。
A型(従来説の乙類、第二類)
 「筑紫の風土記に曰わく、逸覩(いと)の県(あがた)。子饗(こふ)の原。石両顆(ふたつ)あり。一は片長(なが)さ一尺二寸、周(めぐ)り一尺八寸、一は長さ一尺一寸、周り一尺八寸なり。色白くして[革更](かた)く、円(まろ)きこと磨き成せるが如(ごと)し。・・・・」(『釈日本紀しゃくにほんぎ』巻十一)
[革更](かた)は、JIS第3水準ユニコード9795

B型(従来説の甲類・第一類)
 「筑前の国の風土記に曰わく、怡土(いと)。児饗野(こふの)郡の西にあり。此(こ)の野の西に白き石二顆(ふたつ)あり。一顆(ひとつ)は長さ一尺二寸、大きさ一尺、重さ卅一斤、一顆は長さ一尺一寸、大きさ一尺、重さ卅九斤なり。・・・・」(同右)

 ここではほぼ同内容だ。にもかかわらず、「県」と「郡」、基本の行政単位が異なっている。そして何よりこれだけ“ほぼ同内容の説話”が別の型式で書かれている、という、この事実ほど、「九州にだけは、二種類の風土記が存在した」という、この事実を雄弁に立証するものはあるまい。井上通泰氏の指摘以来、問題の所在自体が疑われなかった、その根本は、このような史料事実にある。だからこの二種類の風土記の呼び方について、一番端的な呼び方は、「県あがた風土記」と「郡こおり風土記」である。そして簡明に、前者をA型、後者をB型と、わたしは呼びたいと思う(井上氏の甲・乙・第三類、坂本氏の第一・第二類、の命名に敢えて異をとなえるのは、“乙類、すなわち、第二類が”と見なされている現在、その時代順に沿った命名が、問題の的確な解明の上で便宜であると共に、必要だからである)。
 従って諸国の風土記を通視すれば、九州をふくめて全国にわたって存在するのは、「郡風土記」つまりB型である。これに対して九州にのみ、これと異なる型式の風土記が、右のB型の成立に先んじて成立していた。これが「県風土記」つまりA型であった。 ーー以上が、巨視的に見たさいの風土記という名の史料の時間的・空間的分布なのである。
 ではなぜ、このような異型の分布が実在するのであろうか。これが問いの発端だ。
    ※
 ここで明瞭(めいりょう)な事実がある。それは有名な、風土記撰進の詔との対比だ。
「(和銅わどう六年、七一三)五月甲子。□制 畿内七道、諸国の・郷の名、好字を著(つ)けよ。其の内に生ずる所の銀・銅・彩色草木・禽獣・魚・虫等の物は、具(つぶさ)に色目(しきもく)を録せしむ。及び土地の沃藉(よくせき)・山川原野の名号の由(よ)る所、又古老の相伝・旧聞の異事は、史籍に載(の)せ、(亦宜またよろしく)言上すべし」(『続日本紀』元明げんめい天皇)

 ここには「郡」という字が、二回も明確に出てきている。従ってこの詔にもとづいて作られたもの、それが先の全国にまたがる「郡風土記」つまりB型であることは、疑うことができない。もちろん、各地で実際に成立するまでには、多くの時間がかかり、その成立時点も、各国でまちまちだったようである。たとえば、それから二百年あまりもたった延長(えんちょう)三年(九二五)、風土記勘進の符が出されている。
「(延長三年十二月十四日)太政官符だじょうかんぷ、五畿内七道諸国司。
  応(まさ)に早速、風土記を勘進すべき事。
  右、聞(ぶん)する如く、諸国、風土記の文有る可(べ)し。今、左大臣の宣を被(こうむ)りて稱*(い)う。宜しく国宰を仰ぎ、之を勘進せ令(し)むべし。若(も)し国底に無くば、部内を探求し、古老に尋問し、早速言上する者。諸国承知し、宣に依りて之を行い、延廻(えんかい)するを得ざれ。符到らば、奉行(ぶぎょう)せよ」(『類聚符宣抄るいじゅうふせんしょう』醍醐だいご天皇)
稱*の別字。禾偏のかわりに人偏。IS第3水準ユニコード5041

 もって和銅六年の詔をもって、必ずしも直ちに各国でそれぞれの風土記成立、厳重保管、などとはいかなかった、その実状況が知られるであろう。けれどもそれはともあれ、“B型は和銅六年の詔をもとにして成立した”。この結論は、いかにしても疑えないのである。
    ※
 では、それに先立つくA型はどうか。
 今使った「先立つ」という言葉に対して先ず再確認をしておこう。かつて井上氏は“A型はB型のあと”と見なされた。けれども右のように“和銅六年の詔によっていったんB型の風土記を、九州においても、全国並みに立派に作っておきながら、その後、九州においてのみ、現実に存在せぬ(現実は当然「郡」)「県」なる、架空の行政単位をもった風土記を改めて作り直す”。こんな状況は、考えてみるさえ、ナンセンス、そういって異論はあるまい。従って“A型が先、B型が後”という坂本氏の時代順判定が基本的に反論を見ぬことは当然である。
 だから“B型に先立って、九州にのみ、A型の風土記先在の事実”を認めることとならざるをえないのだが、“では、なぜ” ーーこの必然の問いに対しては、従来の各論者とも、にわかにいずれも“歯切れの悪い”答えしか用意できなかった。たとえば坂本氏。
「ここに本書(第二類をさす ーー古田)の撰修は明かに第一類よりも早く、風土記撰修の時代として考へ得べき最も早き時代に係(か)くるも大なる誤謬(ごびゅう)はあるまいと信ずる。
 只(ただ)第二類が第一類に比し文章の全体に於(お)いて支那(しな)風の文飾の多いことはこの考察に稍(やや)そぐはぬ感もしないではない。しかしそれは他の事情によつて解釈できるのであつて、むしろそこに二様の風土記の存在を説明すべき理由すら含まれてゐるのではないかと思ふ。まづ第二類に文飾の多きは撰者が文筆に長(け)たる人であつた故であらう。多少時代が古くとも、有能な官吏を擁した大宰府(だざいふ)にこれだけの漢文のできる人がゐなかつたとは考へられぬ。彼は恐らく外客に接する大宰府の地位を自覚したが故に、風土記撰進の詔に従つて直に筆を揮(ふる)ひこの風土記(第二類をさす ーー古田)をものしたのではあるまいか。かくて筑紫風土記は奏進され、諸国のもの(第一類をさす  ー古田)と並べられたが、その稍異例な体裁が眼立つた為(ため)に後の大宰府官人の何人かゞこれを基にして今一度風土記の撰修(第一類をさす ーー古田)を企て、そこに諸国風土記の粋を取り、自己に理想の形式を盛つたのであらう。・・・・かくてともあれ、この類の風土記も奏進せられ、九州地方の風土記は二種となつた」(「九州地方風土記補考」)次に田中卓氏。
「九州地方についてみても、筑前国・豊前国の大宝(たいほう)二年の戸籍はすべて郡によつて記されている。大宝二年と云(い)へば風土記撰上の詔の発せられた和銅六年より十一年以前である。もし風土記が坂本博士の云はれるやうに『和銅に近き頃ころ奏上』せられたとすれば、いかなる理由で殊更に当時慣用の郡を廃して、少くとも大化(たいか)以前の古制を思はしめる県を採用したのであらうか。まして風土記撰上の詔には、『畿内七道諸国郷名著好字。其内所生、云々うんぬん』とあるにおいてをやである。凡(およ)そ風土記の記載は現行の行政に役立つものでなくては意味をなさない。従つて地方区画に百年前の古制を採用する必要は毫(ごう)も存しないし、また事実他の風土記にあつては悉(ことごと)く郡によつて統一せられてゐる。さすれば乙類にみえる県は、日本紀に『コホリ』と訓ぜられ、或(あるい)は『アガタ』と読まれた古制のそれではなく、撰者の漢風好みより、支那の郡県制度を習つて文飾のために郡に代ふるに県を以(もつ)てしたものと考へねばならない。すなはちその県は当時における現代的な、いな最新式な用話として、充分に風土記の目的を果し得たものと思はれる」(「九州風土記の成立 ーー特にいはゆる乙類風土記について」)

 これは要するところ、ズバリいってしまえば、“なぜか太宰府にだけ、気まぐれな官人がいて、現実には架空の「県」という行政単位を使って、A型風土記を作ってみた”ということだ。これでは、「答え」自身が恣意(しい)的、いかにも“気まぐれ”の観をぬぐえない、そういったら、これらの業績に満ちた論者に対して失礼であろうか。しかし、“気まぐれ”な答えしか、用意できなかったのは、必ずしも“これらの論者”だけのせいではない。従来の誰人(たれびと)も、これに対して“気ままならぬ答え”を出しえなかった。これが、ことの真相なのである。なぜなら、
 第一、近畿天皇家から、右の和銅六年に先立ち、この「県風土記」を作れ、という命の下された形跡がない(ことに戦後史学の認める史料による限り ーー後述)。
 第二、たとえかりに、近畿天皇家からその種の命が出されていたとしても、九州以外の諸国がすべてこれに従わず、九州のみがこれに従った、というのは不可解である。
 第三、しかも九州で先立って行われたA型風土記の撰進に対し、後年、(その最初は和銅六年)近畿天皇家がこれ(風土記撰進)にならった、つまり模倣した形に実質上なっているのも、その九州のA型撰述の官人が近畿天皇家の「配下」であったとするなら、不可解である。
 第三、また坂本氏のように、「和銅六年」の「郡風土記」作製の詔に応じて作りながら、九州だけA型、他の諸地方ははじめからB型を作った、とするのも奇異である(九州官人不注意説となろう)。
 第四、また近畿天皇家は和銅六年の風土記撰進のさい、歴史上の事実においてはそれが“九州のA型風土記作製の模倣”であるにもかかわらず、右の詔ではそのことに一切触れていない。このようなケースもまた不可解である。

 以上のように、あちら立ててもこちらは立たずの、八方ふさがりのていだ。従ってこの問題の研究史が渋滞したまま進展を見なかったのも、決して偶然ではなかったことが知られよう。このことは次の一点を指示する。少なくとも従来の旧説派の見地、すなわち“日本列島において風土記撰進などの挙をなしうる公的権力者は近畿天皇家のみ”という近畿天皇家一元主義の視野からは、ひっきょう解決不可能、矛盾の壁は抜きがたい。 ーーこれが研究史上の偽りえぬ現況だったのである。

 この未解決の矛盾に対して、わたしがどのようなイメージをいだきつづけてきたか、それはもはや隠すべくもあるまい。“A型の風土記とは、九州王朝で作られた風土記ではないか”。この疑いである。
 “八世紀以降の近畿天皇家に先在した三〜七世紀の九州王朝”という、わたしが第二書『失われた九州王朝』以来、提唱しつづけてきたテーマからすれば、それはいわば“必然のアイデア”といってもいいであろう。けれどもそれだけに、いいかえれば“うますぎる”話だけに、わたしには“慎重にならねばならぬ”。そういう思いが濃かった。だから“口に出す”ことを、いわばみずからに抑制してきていたのである。
 ところが昨年初頭、この問題の再検証を試みはじめると、新たな視野が急激に開けてくるのを見た。そのポイントは、A型における阿蘇(あそ)山の描写である。

「筑紫の風土記に曰(いわ)く、肥後の国閼宗(あそ)の県。県の坤(ひつじさる)、廿余里に一禿山有り。閼宗岳と曰(い)う。・・・(中略)・・・其の岳の勢為(た)るや、中天(注)にして傑峙(けつじ)し、四県を包みて基を開く。石に触れ雲に典し、五岳の最首たり。觴(さかづき)を濫(ひた)して水を分つ、寔(まこと)に群川の巨源。大徳魏々(ぎぎ)、諒(まこと)に人間の有一。奇形沓々(とうとう)、伊(これ)天下の無双。地心に居在す。故に中(なか)岳と曰う。所謂(いわゆる)閼宗神宮、是なり」(『釈日本紀』巻十、肥後国)
 (注)底本には「中天而傑峙」とあるところを、岩波古典文学大系本(五一八ぺージ)では「中半天而傑峙」と改定している(井上氏の『新考』の補字による)。今は、原形(底本)によった。

 となっている。「中天」は“天のまんなか、おほぞら、なかぞら”(諸橋『大漢和辞典』)、「地心」は“地球の中心”(同右)の意だから、ここでいっていることは、次のようだ。 ーー“阿蘇山は天地の中央である”と。

 この表明の立場は、B型の風土記とは明白に異なっている。
「筑前の国の風土記に曰く、怡土の郡。児饗野(こふの)郡の西にあり。・・・・(中略)・・・・『(気長足姫尊おきながたらしひめのみこと)朕(あれ)西の堺を定めんと欲し、此の野に来著(きつ)きぬ。・・・・』・・・・」
 右のように糸島(いとしま)郡の野原は“西の堺(さかい)にあり”という形でとらえられている。これは、いうまでもなく“近畿を原点にした”表記だ。だが、もしこれと同じ発想、同じ表記形式であるならば、当然ながら阿蘇山もまた「西の堺」であり、“天地の中央”などとは、到底なりえないのである。後者は明らかに“九州を原点とする”表記であり、前者のような“近畿原点”の表記とは、立場の根本において、その“原点のおき方”が異なっているのである。すなわち、
 A型は九州を原点とし、
 B型は近畿を原点とする。
 そのちがいが歴然としているのである。
    ※
 次の問題は、行政区劃の問題だ。
 「筑紫の風土記曰く、逸(いと)の県。・・・・」
 「筑紫の風土記に曰く、肥後の国、閼宗の県」
といった風に、「筑前」と「肥後」とが共通して「筑紫風土記に曰く」の句が冠せられているのが注目される(他のA型の例に対しても、岩波古典文学大系本は「現伝本と別種の風土記に属するもの」に「筑紫風土記」と記している)。すなわち「A型風土記」とは、本来「筑紫風土記」なのである。
 ところが、B型風土記の場合は、これとは異なる。「肥後」の場合は「肥後の国の風土記」(玉名たまな郡)、「豊前」の場合は「豊前の国の風土記」(田河たがわ郡)という、通常の形のみだ。つまり全国のB型風土記と共通の形だ。近畿天皇一家のもとの各国別の風土記なのである。何の他奇もない。
 ところが、A型の場合、本来“筑紫を原点として九州全土を包括する”形の様式をとっていたようである。これはなぜか。太宰府の機能が和銅六年以前のある時点とその以後で“激変”したのだろうか。そのような徴候は別に見出せない、少なくとも“近畿天皇家統治下”である限り。そのような“激変”があるなら、近畿天皇家の史書たる記・紀や『続日本紀』にその記事が姿を見せぬはずはない。第一、“筑紫を原点として九州全土を包括”などというのは、“地方の一中心官庁”のなしうるところではない。もし“なしうる”という論者があれば、“九州以外の、どこの地方の中心官庁も、そのような風土記を作ってはいないではないか”と、ひとたび反論すれば足りよう。“吉備(きび)風土記の名で播磨や出雲や備後(びんご)の風土記が書かれた”とか、“大和(やまと)風土記の名で河内(かわち)や摂津(せっつ)の風土記が書かれた”などという話は一切聞いたことがない。またその史料事実もない。
 ということは、先入見に毒されざる限り、平明な答えは一つだけだ。すなわち“A型風土記は筑紫なる王朝のもとに作られた風土記である” ーーこの答えである。

 「県風土記」に関する、核心をなすテーマはすでに提示された。だが、なお残された肝要のテーマがある。それは“九州王朝では「県」という行政単位が一般に用いられていたか”という基本の問いである。この問いに対して幸いにも、わたしは明白な答えを与えることができる。それは他でもない。第二書『失われた九州王朝』、第三書『盗まれた神話』においてわたしの使用した方法、そしてそれによってえられた帰結によってである。

〔その一〕
 『日本書紀』の景行(けいこう)紀に、「景行天皇の九州大遠征」の説話がある。周芳(すほう)の娑麼*(さば)にはじまり、九州東北部の豊前の京(みやこ)に渡ったのち、九州の東岸部と南岸部を「征伐」してまわった、という説話である。後半は凱旋行路。日向(ひゅうが)にひきかえして、そこから肥後南端部に至り、九州西岸部周辺を北上して筑後の浮羽(うきは)を最終地点としている。この説話は“近畿なる景行天皇の説話”として見てみると、矛盾があまりにも多い。たとえば、
 (1) 九州東岸・南岸部が“すでに平定された領域”であり、西岸部が未平定の領域、つまり征伐の対象地、というのなら、東方なる近畿を原点とした場合、理解しやすい。ところが、その逆である、というのは、不自然だ。
 (2) 筑前は“もっとも早くから平定されていた”領域であるはずなのに、ここに立ち寄った形跡が全くない。南から北上してきて、“浮羽止まり”は不自然だ。「筑前の空白」問題である。
 (3) 最終地浮羽から、近畿へ向うべき寄港地たる、日向までの間の記載が全くない。
  (付言する。ここは“『日本書紀』の書式とその史料性格”を分析し、論じているのであるから、B型の『豊後国風土記』日田郡の“景行天皇に関する”記事などをもって“補い解する”という手法は不当である。むしろ右の記事は“書紀の欠を補う”形で“景行天皇の名前に寄托(きたく)された伝承”がここに編入されたものと考えられる。この点、坂田隆氏「『盗まれた神話』批判ー古田武彦氏に問う」〈「鷹陵史学」昭利五十六年三月〉の論点に関係する。詳細は別稿にゆずりたい)
 (4) 史料批判上、もっとも重要なのは次の点だ。それは“この説話が『古事記』に全くない”という一言である。
娑麼*(さば)の麼*は、麼(ば)の別字。JIS第4水準ユニコード9EBD

景行天皇の九州遠征行路図 九州王朝の風土記 よみがえる九州王朝 古田武彦

 この記・紀間の記小の異同に対する、わたしの判断の基準 ーーそれは次のようである。“近畿天皇家の史官が原史料に加削を行うさい、それは天皇家に有利に加削するのであって、不利に加削することはありえない” ーーこれか率直な公理である。そしてその“有利・不利”とは、普通の人間の普通の目から見たそれであって、“もってまわったりくつから見た、一部のインテリ好み”などのそれではないのである。
 このような公理から見ると、この記事について記・紀間の先後関係は明白であろう。なぜなら、もし書紀の方が原形であったとしたら、あれほど赫々(かくかく)たる天皇の大親征成功譚(せいこうたん)を、後代の天皇家の史官たちがバッサリ削る、などということは考えられない。これに対して逆ならありうる。この「九州東・南部平定譚」を他からもってきて、あたかも近畿の天皇の大功勲であるかのように、ここに加えた。 ーーこの帰結である。
 従来の論者には考えがたいところであろうけれども、わたしにはそのように結論する他はなかった。
 では、どこからもってきたか。それは説話自身が物語っている。筑前を原点とする九州、東・南部平定譚の史料性格をもつ(そのさい、肥後はすでに筑紫の勢力下にあったものと思われる)。この仮説に立つとき、先ほどの不審はことごとく解ける。
 (1) 近畿原点の場合と異なり、“九州西部(肥後)がすでに領域内であり、東・南部が未平定”ということは、地理上きわめて自然である。
 (2) 「筑前の空白」は当然である。そこは出発の原点であり、筑後の浮羽のあと、都なる筑前へと帰着したのである。
 (3) 従って最終地浮羽から日向までの記載の絶えている不思議も、当然解消する。
 (4) 『古事記』にないことも、それが本来の形(原形)であるから、当然である。

 すなわち“この説話は筑前の王者(「前つ君」)による九州一円平定譚であり、いいかえれば、九州王朝の発展史である。それを九州王朝の史書(「日本旧記」)から切り取ってきて、あたかも「景行天皇の業績」であるかのように接(つ)ぎ木した、のである”。
 以上が『盗まれた神話』においてのべたところのポイントだ。そしてそれはわたしの古代史学にとっての根本の方法をしめすものであった。
    ※    ※

 右をここで再説したのは、他でもない。この「景行の九州大遠征」に頻出する地名、それが「県」なのである。記・紀を通じて“「県」の最頻出地帯”それが、他ならぬこの史料なのだ。書紀における「景行紀」以前の「県」を左にあげてみよう。
 〈近畿〉 八か所
    菟田(うだ 神武紀じんむき)・菟田下(うだのしも 神武紀)・猛田(たけだ 神武紀)・層富(そほ 神武紀)・春日(かすが 綏靖紀すいぜいき)・磯城(しき 綏靖紀・安寧紀・懿徳紀・孝昭紀・孝安紀・孝元紀)・十市(とおち 孝安紀) ーー大和
    茅淳(ちぬ 崇神紀すじんき) ーー河内

 〈九州〉 九か所
    水沼(みぬま 景行紀)・八女(やめ 景行紀) ーー筑紫
    長峡(ながお 景行紀)・直入(なおいり 景行紀) ーー豊
    高来(たかく 景行紀)・八代(やつしろ 景行紀)・熊(くま 景行紀) ーー火
     諸(もろ 景行紀)・子湯(こゆ 景行紀) ーー日向

 右のように、近畿の他は、それ以上に九州に集中し、それが右の「景行の大遠征」、実は「前つ君の九州一円平定譚」をしめす史料に集中して現われているのである(これを近畿天皇家「治下」の「県」と考えるには、東〈東海以東〉になく、西も、九州との中間〈中国地方等〉が欠けている〈あるいは乏とぼしい〉点から困難であろう)。
 これに対し、この史料が九州王朝の史書「日本旧記」からの「盗用」であるとすると、その史書では、「県」という行政単位が広く用いられていたこととなろう。すなわちこの「県」は九州王朝の行政単位なのである。

〔その二〕
 もう一つの「盗用」の説話、「神功じんぐう皇后の筑後征伐譚」でも、同一の傾向が見られる。先ず、問題点は左のようだ。
 (1) 仲哀(ちゅうあい)の死と新羅(しらぎ)行の間に、書紀では神功の筑後征伐譚がある。有名な羽白熊鷲(はしろくまわし)や田油津媛(たぶらつひめ)討伐の説話である。
 (2) しかし、仲哀の死(おそらく賊の矢に当ったことが原因となった死、すなわち敗戦下の死)後、という形成不利のとき、いきなり“神功が筑後平定に成功した”というのは、あまりにも唐突である。
 (3) この印象的な「筑後征伐成功譚」が、またしても『古事記』には全くない。

 従ってこれも先と同じ公理に従う限り、“ない方の『古事記』の方が本来の形(原形)、ある方の書紀の方が改作形”と見なす他はない。すなわち“筑前を原点とした筑紫一円平定”である。それは「橿田宮かしひのみや の女王」にかかる説話と見なされる(『盗まれた神話』参照)。
 これは九州王朝の原域たる「筑紫一円平定譚」という、九州王朝発展史の中でも、もっとも原初的な段階の説話だったのである(当然、先の「前つ君の九州再平定譚」より前段階)。ところがここでも、
  伊覩(いと 神功紀)・山門(やまと 神功紀)・松浦(まつら 神功紀) ーー筑紫
といった「県」地名が出現し、右の「前つ君の九州一円平定譚」と同一の史料性格をしめしている(「沙麼*さば」周防すおう、も)。
娑麼*(さば)の麼*は、麼(ば)の別字。JIS第4水準ユニコード9EBD

〔その三〕
 同じく、仲哀の九州遠征説話をめぐっても、
 儺(な 仲哀紀)、伊覩(いと 仲哀紀)、崗(おか 仲哀紀) ーー筑紫
という風に「県」名が連続している。しかもいずれも九州内においてである(この「県」出現部分の記事も、「日本旧記」などからの「盗用」と見られる)。
 以上を一言でいえは、“他の史料(九州領域)”から接ぎ木された部分 ーーまさにそこに「県」記事が氾濫しているのだ。この史料事実は、一体何をしめすだろう。他ではない。わたしたちはここに“九州においては古くから「県」の制度が実在していた”その痕跡を認めざるをえないのである。なぜならもしこれらが「後代の六〜八世紀の近畿の史官による造作」であったとした場合、“九州にだけ、くりかえし、まきかえし、「県」という行政単位を造作した”というような解釈に陥らざるをえない。そんな想定は、誰が考えても、およそナンセンスという他、何物でもないであろうから。
 さにあらず、この「県」地名群は、他ならぬ「九州王朝の行政単位」そのものの痕跡、その史料(断片)上の反映なのであった。

 「九川王朝の行政単位としての『県』」 ーーこのような新概念に人はとまどうであろう。何しろ、九州王朝そのものさえ、学界はもとよりいかなる教科書も、認知のかけらさえしめしていない現在なのであるから。
 けれども、人間の平明な理性に従うとき、それは決して奇異な事態ではない、むしろ必然なのである。なぜなら「県」とは、当然ながら本来中国の行政単位である。周知の経緯を略述しよう。
 先ず周(しゅう)の封建制。斉せい・趙ちょう・魯・燕えん・楚、といった国々が並立し、中心に周王朝があった。あの蘇秦(そしん)、張儀(ちようぎ)等の合従連衡(がつしようれんこう)の術策も、このような各「国」の間に生れたエピソードだったのである。
 次に秦(しん)の郡県制。「県」が誕生した。かつての「国」は「郡」に代り、中央から派遣された官僚が支配した。そしてその下部単位として「県」がおかれたのである。
 次が漢(かん)の郡国制。これは全国を「国」と「郡」の折衷型とし、「国」では漢の高祖の一族や功臣が「王」となり、「郡」では、秦代のように中央からの派遣官僚が統治した。そして右のいずれにおいても、下部単位は「県」だったのである。たとえば、
  「山陽さんよう郡(故、梁。景帝中六年、別れて山陽国為(た)り。武帝の建元(けんげん)五年、別れて郡為り。莽(もう)、鉦野(きょや)と曰(い)う。[亠/兌](えん)州に属す)・・・・県二十三」(『漢書』地理志上)
[亠/兌](えん)は、亠の下に兌。JIS第3水準ユニコード5157

  「楚国(高こう帝置く。宣せん帝の地節(ちせつ)元年、更に彭城(ほうじょう)郡為り。黄竜(こうりょう)元年、故(もと)に復す。莽、和楽(わらく)と曰う、徐州に属す)・・・・県七」(『漢書』地理志下)

 われわれにおなじみの楽浪(らくろう)郡・帯方(たいほう)郡なども、その「郡」の一つだったのである。この制度は魏、西晋へとうけつがれた。『三国志』の各列伝の冒頭に、
 「李典(りてん)、字は曼成(まんせい)、山陽・鉦野(きょや)の人なり」(『魏志』巻十八)

といった風の形で書かれているのは、山陽郡鉦野県の出身であることをしめす。また『魏志』の彭城王拠(きょ)伝に「国・郡・県」をめぐる興味深い詔がのせられている。
 「(黄初五年、二二四、文ぶん帝)詔して曰(い)わく『先王、を建て、時に随(したが)って制す。漢祖、秦の置く所の、を増す。光武(こうぶ)に至り、天下損耗(そんこう)せしを以(もつ)て、并(あわ)せて郡県を省く。今を以て之に比すれば、益ゝ(ますます)及ばず。其(そ)れ、諸王を改封して、皆王と為す』
 拠、定陶(ていとう)に改封せらる。太和(たいわ)六年(二三二)諸王を改封し、皆を以てと為す。拠、復(また)、彰城に封ぜらる。景初(けいしょ)元年(二三七)、拠、私(ひそか)に人を遣わして中尚方(ちゅうしょうほう)に詣(いた)り、禁物を作るに坐(ざ)し、県二千戸を削らる。」(『魏志』巻二十)

 制度改変の錯綜(さくそう)した記事の間に「郡 ー 県」「国 ー 県」制の存在が明瞭にうかがわれよう。また『宋書』州郡志には、
 「益(えき)州刺史、漢の武帝、梁(りょう)州を分けて立つ、治する所、別に梁州を見る。二十九、一百二十八を領す。
  蜀(しょく)郡太守、秦立つ。晋の武帝の太康(たいこう)中、改めて成都(せいと)と曰う。後、旧に復す。五を領す」(『宋書』州郡志四)

とあり、州のもとに「郡・国・県」の存在する状況がうかがえる。さらに『隋書』地理志では、
「天監(てんかん)十年(五一一、梁武帝)、州二十三・三百五十・千二十二有り。(中略)
 高祖、終を受け、朝政を惟新(いしん)す。開皇(かいこう)三年(五八三)、遂(つい)に諸を廃す。・・・州を析置(たくち)す。煬帝(ようだい)、位を嗣ぐ。・・・既にして諸州を併省し、尋(つ)いで州を改めてと為す。・・・・大凡(おおよそ)一百九十、一千二百五十五」(『隋書』地理志上)

 とあるように、変改の中にも、“州もしくは郡のもとに県”という制度は代々うけつがれていたようである。
 さて以上のように、中国の「県」制は連綿と連続していた。その長年代の間、臣属・国交をつづけてきた倭国(わこく)側はこの影響をうけないままにきたのであろうか。いいかえれば、この制度だけは敢(あ)えて“とり入れず”に拒否してきたのであろうか。
 先ず『三国志』の倭人伝について考えてみよう。
 「古(いにしえ)より以来、其の使、中国に詣るや、皆自ら大夫と称す」
 倭国は周代の「卿けい・大夫たいふ・士」の制度をうけ入れ、その名によって貢献していた。「大夫」とは、当然周代の「のもとにおける制度である。さすれば、“「大夫」を名乗った”ということは、“周の天子のもとにおける「国」”の位置に、みずからの倭国をおいていた、ということの表現であろう(ここで「古」という言葉は「周以前」を意味する。『邪馬一国への道標』参照)。
 次いで志賀(しかの)島の金印。この「漢委奴王印」の「国」とは、当然漢の「郡国制」下の「国」を意味する概念である。少なくとも、中国本土内において、その「国」の下には「県」の存したこと、前述のごとくである。
 ふたたび『三国志』。卑弥呼が親魏倭王の称号をえたと共に、その配下の難升米(なんしょうまい)・掖邪狗(えきやこ)等は率善中郎将(そつぜんちゅうろうじょう)、牛利(ぎゅうり)は率善校尉(そつぜんこうい)という中国称号を与えられた。すなわち倭国では女王も、その主要な配下も中国式制度の中の称号によっていたのである。
 そして注日すべきこと、それは卑弥呼の使者たちが帯方郡へ往来するとき、帯方郡治(ち)にいたる前に、“幾多の帯方郡内の「県」を通過していたこと”、それは疑う余地がないという点だ。少なくとも「郡 ーー  」の制度は三世紀以降の倭人(の支配層)にとって周知のところであった。そして洛陽(らくよう)に至った難升米たちは当然、その途中「国 ーー 」の制の中を行き、この制を知悉(ちしつ)したのである。
 次に『宋書』。倭王武(わおうぶ)は中国の天子に対して「臣」を称し、「藩」を称し、例の将軍号などの中国式称号を倭王以下、愛用していた。「自称」さえした。ここに及んでも、なおかつ中国式の「県」制度に対しては無関心だったのだろうか。
 以上の状況を総括すれぼ、三世紀以降において倭国がいつ中国式「国 ーー 県」制を模倣し、襲用したとしても、不思議はない。もちろん、必ずしも中国式発音で「県」と呼んだという意味ではないけれども、中国の天子の配下の倭王として「国 ーー 県」制を襲用していた可能性はきわめて高い。そのようにいいうるであろう。
 そして反面、記・紀のしめすように、“九州において「県」の出現が多く、かつ早い”。このような史料上の痕跡に出会うのである。
 以上のような考察に立ってふりかえれば、“邪馬一国 ーー 九州王朝の故地において、中国風の「国 ーー 県」制(に相当する行政単位)が施行されていた”という、この命題は、実は何の他奇も存しないところなのであった。なぜならこの日本列島を代表する一中心国が“行政制度をもたぬ”ことはありえず、またその行政制度に対して“中国の行政制度が影響していない”そのような状況の方が逆に考えがたいところだからである。

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