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市民の古代・古田武彦とともに 第5集 1983年 特集1 九州王朝の文化
古田武彦を囲む会発行 「市民の古代」編集委員会
『古代の霧の中から』(徳間書店 絶版)第四章

筑紫舞と九州王朝 3

3西山村光寿斉さんの証言

何か目に見えないものでこうなった

司会 これから懇親会を始めたいと思います。最初に質問というかたちで皆さまに出していただき、それについて西山村さん、古田さんにお聞きしたいと思います。
質問 「肥後の翁」は西山村光寿斉、「加賀の翁」は西山村光寿、「都の翁」は西山村筑紫で演じられましたが、(一九八○年十月五日、姫路文化センター大ホール)「肥後の翁」は代々光寿斉さんが、「加賀の翁」は代々光寿さんが伝承するということですか。
西山村 そうではありません。「肥後の翁」は踊りを教える者の最高の者がつとめる。次にくるのが「加賀の翁」、その次が「都の翁」であると(菊邑検校から)聞いております。
 私は西山村流の宗家(そうけ)で、長女は二代目光寿、家元でございまして、次女筑紫は分家家元で、三人が流派の長ということです。ですから、西山村A子が宗家であれば、「肥後の翁」は西山村A子がつとめるということでございます。
質問 先ほどの古田先生の講演で、筑紫が都の地であるということを聞きました。「都の翁」を演じた人が、筑紫という名前なのはどうしてですか。
西山村 偶然なのです。本当に偶然なのです。次女は本名が河西美夜(みや)子といいます。もともと私が西山村光寿、二代目が若翠(みどり)、分家は美寿世(みすよ)と名乗っていたのです。ところが武智鉄二さんが、七、八年前に筑紫舞を見られまして、「これは大変なものだ。普通の舞ではない」と、わざわざうちの家まで聞きにみえました。私は「実は九州の・・・」と返事したのです。それから東京で、出てくれ、出てくれと話があり、度々上演したのです。そのうちに文化庁や芸能評論家という人達が見にこられるようになりました。
 ある時、文化庁の無形文化財の調査官の田中英機(ひでき)さんが、ある文学博士に見てやってくれと、東横劇場に見にきてくれたのです。その時私は光寿で、娘も若翠と美寿世だったのです。その文学博士は「なんだ。弟子の踊りごときを見せるのに、俺をわざわざ呼んだのか」と言われたらしいのです。名前はどうであろうとも、と思ったのですが、武智先生に「名前が悪いよ。(光寿を)隠居しなさい」と言われまして名前を変えたのです。光寿斉は斉明天皇の斉なんです。二代目は光寿に譲って、分家家元はどうしようとなかなか決まらなかったのですが、武智鉄二氏に、「筑紫振りだから、筑紫にしたら」と言われて西山村筑紫になったのです。
 一年半ほどして古田先生が、「都(といわれている土地)は筑紫(の地)と違いますか」と言われたので、「ええそうです。“みやこ”(美夜子)は筑紫です」。「都の翁は筑紫と違いますか」「ええそうです。都の翁は筑紫がつとめます」と全然話が合わないことがありました(笑)。偶然の積み重ねでして、何か目に見えないものでこうなったと思っています。
 光寿という名も、山村ひさという山村流の師匠から貰った名前が父の気に入らず、父が付けたのです。
質問 この際ですから、筑紫を代々名乗られたらどうでしょう。
西山村 分家はまだ独身で、筑紫の名前をやれる跡つぎがおりません。どなたかよろしくお願いいたします。
質問 「翁の舞」の内容、話の筋を教えていただきたいのです。
司会 言葉で言うより、ビデオに撮られたものがありますので見られた方がいいと思います。複製しますので機会を作りまして皆さまに見ていただきたいと思います。
古田 内容は何というものではないのです。台詞(せりふ)としては、おのおのの翁が出てきて名乗りをあげるのです。多少ニュアンスは違うのですが、「自分は肥後の翁である」「加賀の翁である」と名乗りをあげ、その間に複雑な舞が展開していくわけです。舞ですから(「七人立」)二十五分間、肥後の翁を中心に舞われ、その間名乗り(正しくは「国問い」といいます)が入っていくというスタイルのものです。いわゆる掛け合いをしたりという類のものでは全然ないのです。

“死語”を習い伝える

質問 舞を拝見すれば、一番よく分るでしょうが、テーマがあると思うのですが、それは何でしょうか。
西山村 能の「国土安穏(こくどあんのん)」と同じタッチでございますので、寄り集って懇親会を開いているという感じです。
質問 宮廷舞楽となりますと、隼人舞、韓国舞も服属儀礼になるわけですね。そういうものとのからみはないのですか。
古田 わたしの解釈ですが、各国の翁が出てきて自分の“国振り”の舞をそこで奉納するというスタイルになっているわけです。だから今のご質問と共通の要素があるわけです。
 自分の好きな舞とか、気に入っている舞を舞うというのではなく、それぞれの国の舞をもって、都へ出てきて舞う、というスタイルの舞になっているのです。
質間 宮廷でする舞楽なのでしょうか。
古田 宮廷でする舞楽のムードをもっています。様式化された舞になっています。これは想像ですが、本来は一つ一つの舞が出雲なら出雲独自の舞、尾張なら尾張独自の舞というものであった可能性があります。今は目立って別々というふうではありませんが、それぞれの翁の所作、台詞に特徴をもたしているようです。
質問 「ルソン足」とは、具体的にどんな足をいうのですか。
西山村 やってみなければ・・・・・一口ではいえません。
古田 こういう舞は、理屈を習って理屈に合わせて踊るのではありませんから、実物そのままを伝承しておられるのです。口で上手に説明するのは、むつかしいと思います。実物をご覧になるか、ビデオで見ていただかないと。
西山村 一言、足どりについてご説明申しあげます。私はこれしか知らないので、たいして珍しいものと思っていなかったんです。普通だったら、足を二つそろえて一足にして、ポーンと飛ぶのです。古い歌舞伎に一足にしたまま跳躍して前や後に進むのは残っているらしいのです。
 私共の筑紫振りの足では、送り足というのですが、パッパッと速く前に進んでいくのです。そして、足をぐっと引いといてパーンと飛んで跳ねて座るのを一遍にするというので、筑紫振り全体にあります。
 ルソン足というのは、つま先をはね上げて、カカトを常に下につけているのをいうのです。話はちがいますが、私の言う言葉は死語になっていてずーっと昔の文献にあったと、文化庁の人が言うのです。八百屋で買い物するみたいに次々、今は使われない言葉を使うのでびっくりしたと言われました。
 たとえばおじぎの仕方ですね。翁のビデオを見ていただくと分るのですが、横に手をやってピッとはね、額のところにもってきて、卍(まんじ)を書いて、胸前から下になで下ろしておじぎをする。これを権帥礼(ごんのそち)というのです。「早船」などの時は、手を横にして、前にしておじぎをする。これは帥礼なのです。権帥礼が上等で、帥礼が上等でないというのが非常に面白いと文化庁では言うのです。どんなものでしょうか。
 子供の頃から、これは権帥礼である。これは翁に限ると教えられ、七人の翁がズラリと並んで、一糸乱れず権帥礼をすることが、神様に喜ばれると聞いております。それから柱つき、舟つきという言葉があります。これも私だけが言っている言葉らしいです。「(皆が使っている)板つきなんて知りません。柱つきと言っています」と文化庁の人に言いましたら、その時は「そうですか」と帰られたのです。三日ほどして会った時(東京で)、「古い文献に載っていた。家元(現宗家)、誰に聞いたのですか」と言われました。「子供の頃から、そう聞いていたのよ」。家元になってから舞台をつとめねばならない時、リハーサルで狂言方が「これは板つきだっか、どこから出はります?」と聞かれて、板つきて何だろう?とあたふたしまして、そんなことも知らん家元はもぐりと思われたらいかんと、「そうです」と言うたんです。
 幕が上がった時、舞台に控えているのが板つきと分って、「なあんだ、これだったら柱つきのこと」と言った覚えがあるのです。ですから、筑紫振りと他の踊りと各名称が違っていますね。変に古めかしい言葉で言われているのが特色だと思います。
古田 今のお話は死語になっていると芸能界で思われている言葉を、西山村さんは菊邑検校さんから習われたということです。
 ルソン足など所作を、今実際にしていただくわけにまいりませんので、ビデオで拝見するというのが一つの方法ですね。それから東京で今年の秋十一月二日に、芸術祭に上演なさるそうです。これは翁ではない可能性が強いようですが、その際、場所を借りているから、「五人立」などを見せてあげてもいいとおっしゃって下さっていますので、東京の会の方達で計画して下さっているようです。
司会 ビデオは二種類共あり、会として保存いたします。見たいと希望されます方にはご覧いただきたいと思います。
 また西山村さんは姫路にお住まいですから、関西で公演なさる時は、わたしどもから呼びかけますので、その時はぜひご覧になって下さい。(後記 ーー現在は福岡市在住)

他に伝承者はいない・・・

質問 現在、西山村さん以外に筑紫舞を伝えておられる方はいらっしゃいますか。
西山村 私はないと思うのですが、ひょっとしたら、私のような人がどこかに居るかも知れませんね。九州の方には残っていないと思うのですよ。これは私の想像ですが、九州に習ってくれる人がいたら、わざわざ神戸まで来て、私をつかまえて教えなかったと思うのです。だから九州にはいないと思うのです。それでも、その人達の仲間が、誰かにこっそり教えていたかも分りませんですね。
 私のことがクローズアップされれば、「私も知っている」という人が現われるかも知れません。私は今まで、みにくいアヒルの子でございまして、山村流の中にいて、山村流でない地唄舞をもっているということで随分いじめられて参りました。だから他にいらっしゃるかどうかは知りません。
質問 筑紫舞を現在している人は、いないのですか。
古田 プロの舞の世界で、西山村さん以外に筑紫舞を教えている方は、どうもいないようでございます。東京では高田かつ子さんが、一所懸命手紙や電話で問い合せて下さり、大阪でもわたしが問い合せてみたのですが、どうもいないようでございます。
 筑紫舞と名乗るのは、講演で申しましたように、田島八幡にございます。これは神楽でして、神社の祭礼の時に行う、表芸というべきものであります。
 また“鼻欠け”の人が、神社で踊っていたという話でしたが、これは翁ではないと思います。むしろ田島八幡に相似た神楽だと思うのです。(後記 ーーくぐつの人達が祭礼で行っていたのは、あるいは神楽以外のもの、見せ物・売り物の類かもしれません。)
 だから神楽とは別に、くぐつの世界に秘伝として、「翁」を中心とする筑紫舞を伝承しておられたのです。この秘伝としての「翁」を知っている人はいないか、ということになりますと「論理的想像」になります。それは昭和十一年に十三人集って、舞われたわけです。
 その方々が生きておられる、あるいはその方々の子孫というか、後継者が生きておられる可能性があるわけです。ついこの間のことですからね。その方々が「十三人立」を演じうるとか、見たことがあるという人が現存する可能性があるわけです。しかしわたし自身も調べたし、博多にお住まいの方にも調べてもらったのですが、今のところ分っておりません。(後記 ーー宮地嶽神社の洞窟の舞のときに来合せた方が地元などにおられることがわかりました。)
 恐らく表(おもて)をさがしても、見つからないでしょうね。わたしはくぐつですなんて、電話帳に載っていないでしょうし、看板も掛けていないですから。芸能差別ということがありますから、裏側で隠されているのではないかと思うので、そう簡単にはみつからないでしょう。わたしが博多に行き、博多の人が一所懸命聞きまわっても分らない。博多のそういうお師匠さんに、わたしも随分聞いてまわったのですが分らない。
 しかしわたしが思いますに、表から行っているから分らないのです。分らないことと、存在しないこととは同じではありません。これに関連して、「太宰府の御(おん)使者」と言った伝令の方が、洞窟の「十三人立」の時、女学生の西山村さんが退屈してはと話をしてくれたそうです。「あの人は京都から来た方です。くじがあるので、これ(十三人立)が終ったらすぐ帰らなければいけないのです」というのがあったそうです。その人はきれいな着物を着ていたそうです。
 西山村さんが「くじってなに、くじびきのこと?」とお父さんにお聞ぎになったら、「いや違う。おそらく訴訟のことだろう。訴訟しやはるんやから、だいぶ身分のいい方やな」と感想をもらされたそうです。「公事」と書いて「くじ」と読みますね。今でもそうですが、当時は特に訴訟をするのは、貧乏な人はあまりしませんわね。これから思いますと、京都でちゃんと市民生活をしておられて、伝令がくると洞窟にくるんですね。その方はいい着物を、悪い(というと変ですが)木樵りみたいな粗末な着物に着替えて洞窟で舞われた、というのです。
 ここから先はわたしの想像ですが、この京都から来た人などは確実に子供さんかお孫さんがいると思うのです。その子供さんやお孫さんも知っているのではないか? “お父さん、お祖父さんがくぐつだ”ということを知っているんではないでしょうか。場合によったら、今でも伝令が来ているかも知れませんね。しかし恐らく人に触れ歩くことではなくて、秘密のことではないだろうか。だからこちらから探すのは、大変なことなのです。ですからわたしとしては、本などに書いて出しますね、それを見て「実は私は知っている」「私も聞いたことがある」と言って下さる方が現われるのを期待しているわけです。
 もう一つ、推測に推測を重ねてですが、筑紫舞の「翁」としての伝承は、くぐつの方々以外にむつかしいなあと思いますが、菊邑検校さんに、西山村さんの友人が長崎でお会いになった時、「何をしていらっしゃいますか?」「いや、他にすることがありませんので音曲を教えておりますしということですので、長崎に菊邑検校さんのお弟子さんはいるわけです。但し「翁」などを伝承されたかどうかは、全く分らないのです。以上のようなところです。

菊村検校に抱いた疑問

質問 服装ですが、翁それぞれに決っているでしょうか。また絵馬の人物の扇に日の丸がありますが、持ちものに特徴があるのですか。
西山村 絵馬にある翁は日の丸を持っていますが、私達は持たないのです。絵馬は絵馬なんです。「七人立」を私が洞窟で見ました時は、日の丸ではなかったように思います。すごく傷(いた)んでいたけれど、扇が金だったような気がするのです。
 一般に日本舞踊の扇は(今)普通寸法が九寸五分なんです。山村舞だったら八寸五分なんです。祝儀物の場合は尺ものといいまして一尺あるのです。
 その時、私が見ましたのは、尺ものの感じがしました。大きく見えました。仕舞の扇ではないけれど、大きいなあと心に残ったような感じがするのです。別にそんなに深い関心ももってませんし、「ひょっとしたら、あれが尺ものかなあ」と思ったように思います。
 服装ですが、衣みたいなのを着ている人だとか、昆布みたいになってぶらさがっているのを着た人がいました。
 菊邑検校も琴を弾じてではなくて、ただ最後になるかも分らないから行きましょうと言って、連れて行って下さったのです。だから本当言えば、私達と同じお客さんとして行っているのにもかかわらず(こんなふうにいろいろ細部にわたって研究されてきますと、ふっと疑問に思うのですが)、昆布みたいななんともかんとも言えない、出し昆布の色みたいのに着替えられたのです。
 宰領さんなる人が全部の衣裳を預かっているのです、きたない衣裳を。そこへ来る時は、お百姓さんの格好をしたりで、普通の格好をしているわけです。そこへ宰領さんが風呂敷包みを沢山沢山持ってきて、「これあんたの」「これあんたの」というふうに分けるわけです。「おやかた様もどうぞ」と、検校さんのところへ持ってきたのを着替えられたのです。
 私の父や母は、私がどこかで踊る時は検校に地方(じかた というのでしょうか)をしてもらわないといけないので、気をつけていて真っ白な羽二重で着物を作ってさしあげたり、鼠小紋の着物や紋付の羽織や袴を、こしらえてあげたりしたんです。
 九州に行く時も、父と同じくらいの体だったから、ひょっとして父のおさがりかもわかりませんが、結城紬みたいな着物を、わざわざ着ていっているのに、そこでお昆布みたいな着物に、見るだけなのにわざわざ着替えたのです。
 だから私、おかしいなあと思ったんです。今でも私、おかしいと思うのです。
古田 そこで一つ面白い問題があるのです。「十三人立」の舞の準備をしている時、十三人の一人が「おやかた様の前で、これを舞うのもこれが最後でしょうな」という意味のことを言われた。
 おやかた様というのは、どうも菊邑検校だと思うのです。講演の時に言いましたように、伝令の方が神戸に来られて、検校と同じ室の隅に床をとろうとしたら、「おやかた様と枕を共にするのは死ぬ時だけでございます」と言って寝なかった。これは明らかにおやかた様、菊邑検校ですね。
 洞窟で「おやかた様の前で・・・」のおやかた様は、考えようによって、古墳に祭られた神様の前でと、とれないことはないのですが、同じおやかた様ですから、これはやはり菊邑検校をおやかた様と言っていると、私は判断したわけです。
 東京で鋭い質問があったわけです。水戸から出てこられた高校三年生の千歳(ちとせ)さんがされた、「なぜ、菊邑検校はおやかた様といわれるのか」ということだったのです。わたしが「筑紫舞を完全に、“鼻欠け”の人から教えきられた。だからおやかた様と言われるのではないですか」と答えたわけです。すると千歳さん曰く、「じゃあ現在は、西山村さんがおやかた様ですね」。これで私はガクンときたわけです。若い方のストレートな質問で、問題の真相に近づけるわけですが、どうみても、西山村さんがくぐつの方からおやかた様とされているような感じはしないわけです。どうもおやかた様ではないようです。ということは、私が示した一つの解釈、筑紫舞を完全に教えきられたおやかた様というのであれば、西山村さんはおやかた様であり、くぐつはおやかた様を逃がしては駄目なわけです。ところが、くぐつの残党が西山村さんのところへ寄ってきている様子が全然ないわけです。結局、おやかた様は、筑紫舞を教えきられていることもあるかもしれないが、それだけではないのではないか。他の条件がいる。
 ズバリ言いまして、くぐつ集団がいまして、その頭領といいますか、統率者というか、そういう力量、実質を持っていなければ、おやかた様という名前は与えられないのではないか。その意味でおやかた様は、両要素を兼ねているのが理想ではないかと思うわけです。
 わたしの想像ですが、菊邑検校が西山村さんに伝えられたのは、(言葉は悪いですが)“非常手段”だと思うのです。戦争が近づいてくるという状況下と、自分がいつ死ぬかわからないということで、絶えてはいけないということで、西山村さんに教えられたと思うのです。
 お弟子さんに教えていて、お弟子さんが上手(うま)く間合いが合わない。それを小学生時代の西山村さんが、子供がよくするように真似して、「ここはこうするのじゃないの」と舞ってみた。それが非常に勘どりがいい、間どりがいいので、それを見込まれたのでしょう。絶やしてはいけない、伝えなくてはいけないというので、“非常手段”といいますか、例外的に教えられたのでしょう。女の方に教えるというのは、本来は“ない”のでしょう。あの「十三人立」も全部、男でしょう。それを女に教えること自身も異例なわけです。
 例外的な、異例のケースである。わたしの想像ですが、本来のケースは、筑紫舞を伝授していると同時に、くぐつ世界の頭領ということで、始めておやかた様と呼ばれるのではないか。菊邑検校は単に、“鼻欠け”の人から舞を習っただけでなく、そういう実質の位置についておられた。だから伝令がしょっちゅう来ていたのではないかというふうに、想像の領域がありますので、(実際は間違っているかも知れませんが)こういう問題があるわけでございます。

「宰領」と「おやかた様」

質問 「翁」の時、どういう楽器を使われますか。
西山村 三味線とお琴を使います。
質問 鼓類はどうですか。
西山村 私が洞窟で見ました時は、入っておりました。鼓というより大鼓(おおかわ)でした。
質問 「翁」はどういう名乗りをあげるのですか。
西山村 肥後の翁は「われは肥後の翁」と名乗って、「加賀の翁」は「われ」って言わないで「かーがの翁」、都の翁は「都の翁」と言いまして、「われ」は入らないのです。難波津より上りし翁は「われは難波津より上りし翁」と、水をかきあげるふうな中腰になって、チョンチョンと出てきて名乗るんです。
 尾張は「われこそは尾張の翁」。出雲の翁は大国主みたいな格好をするのです。初めからなのか、どこかで変ったのか、菊邑検校の好みなのかわからないのですが、「われは出雲の翁にておじゃる」と言って、袋をかける格好をするんです。私は子供の頃に、大国主のことかなと思っていたのです。今こんなこと言ったら、古田先生に叱られるので言いません。何か分りません。
 夷(えびす)はチョンチョンと千鳥に飛んで出まして、「夷の地より参りし翁」と言うのです。夷の地ですから、(都から)一番遠いかもわかりませんですね。
質問 宰領とおやかた様の関係はどうなるのですか。
西山村 宰領さんは私の想像ですけれど、その年々の集りというのですか、それをお世話する方ではないのかと思うのです。
質問 道具方ですか。
西山村 そうじゃなくて、世話人みたいでした。宰領さんは「朝倉」の翁だったのです。「十三人立」の時に。「朝倉」か「高倉」だったか、はっきりしないのです。はっきりしないのに言うと、叱られますので。(後記 ーーのちに「高倉」のようである、とお話あり。)
古田 先ほどから西山村さんがおっしゃられている「叱られる」云々は、明確な事実と想像の部分を、はっきり分けて下さいということです。菊邑検校からはっきりこうだと聞かれた点と、西山村さんのご想像の部分を、はっきり分けて下さいと、何回も神経質なくらい申しております。そのことだと思います。
質問 「七人立」の時、宰領さんは何をしましたか。
西山村 「十三人立」も「七人立」も、同じ日でしたので、宰領さんの「七人立」の時、お世話だけだったのとちがいますか。前年の時はどなたが宰領になられたのか知らないのですが、どなたが宰領でも、肥後の翁が一番えらいのです。私が(する肥後の翁が)一番えらいんです。
古田 だから「七人立」の時、宰領さんは舞っていないのですね。この回のといいますか、その年(何年に一回か、年に何回か知りませんが)の世話役が宰領さんということらしいですね。
質問 筑紫舞と『肥後国誌』の「山の能」の関係を、もう一度教えて下さい。
古田 西山村さんの筑紫舞の「翁」ですね、これを筑紫舞と言っておりますが、わたしなどが言ってる踊りや舞とは全然ムードが違うわけです。端的に言えば能といえる。荘厳なものということが第一にあるのです。『肥後国誌』には「山の能」がある。京都などとは違った、伝承された能があり、翁の舞が能のメインになっているのです。
 もう一つ、西山村さんの翁は「肥後の翁」が中心で舞われます。ということは(後で言いますが)肥後で伝承されたものではなかろうか、ということです。肥後は装飾古墳の中心になりますね。それらの反映ではないかと、わたしは考えたのですが、それだけではなく、肥後で伝承されたので肥後の翁を中心に舞うのではないかと考えたわけです。肥後で能のような様式をもって、「翁」を中心に舞うものが伝承されていた。一方、「山の能」も能といわれているから、当然能の様式をもって、「翁」がメインである。肥後の中で伝承されている。
 両者は非常に関係が深い。しかし最後の一点では、結びつく論証がないわけですが、どうも直接か問接か分らないが、無関係なものとは思えないと思うわけです。先ほどの翁の面の話も、何となく『肥後国誌』と相対応する感じがあるわけです。
 断定はできないですが、次のようなことは言ってもいいのじゃないでしょうか。
 西山村さんの筑紫舞は、どうも肥後で伝承してきた可能性が強いということ。また肥後の地で、「山の能」にみられるような「翁」をメインにした能が、古くからの伝承として存在していたということ。能を演ずる地域的な伝統があったということだけは言えるのではないかということです。

のとり方が異なる「ルソン足」

質問 「ルソン」というとフィリピンを連想するのですが、筑紫がルソン、フィリピンと歴史の上で、どのような関係にあったのでしょうか。「ルソン足」がどのようにして舞の世界に入ったのでしょうか。
西山村 「ルソン足」というのは、ルソンから入ってきたというのではなくて、一つの名称だと思うのです。たとえば権帥礼というように。足のあげ方の一つの名称だと思うのです。
 それからこれは私の発想なのですが、鎌倉室町時代に、くぐつの集団、遊芸人のくぐつの集団がいたと思うのです。九州でも遊芸をしながら廻っていたのが、長崎かどこかでルソン人の踊りを見て、足のあげ方が非常に面白いので、筑紫振りに取り入れたとも、私には考えられるのです。
 文化庁にも言いましたのですが、地唄舞の中にオランダ万歳というのがございます。私もあまり知らないのですが、これもルソン足をするのです。それを当時生きていた山村ひさ(山村流の師匠)が、「(筑紫舞の)そんな足どりやったら、オランダ万歳なんか面白いのと違いまっか。それで万歳を、オランダ万歳で教えてもらいなはれ」と、菊邑検校に言うたことがあるのです。その時、菊邑検校は「駄目です。似て非なるものだから」と言うたんです。間のとり方が、オランダ万歳の「ルソン足」と、私の伝えている「ルソン足」とは違いますということで、「なまじ似て非なるものだから、習わないでくれ」ということで習わなかったのです。オランダ万歳が三テンポでとるところを、筑紫振りでは五テンポでとるという違いがあります。だからオランダ万歳を習ってしまうと五テンポでいけてたものが三テンポになってしまうということだろうと思うのですが、頑として教えてくれませんでした。
 もう一つ不思議なことがありました。数知れないほどたくさん、地唄の踊りを教えてもらったのですが、「曽我物語」だけは、曽我に関係したものだけは、なぜか教えてくれませんでした。タブーみたいに避けてましたね。オランダ万歳のかわりに琉球組(ぐみ)を教えてあげましょうというて、琴の古曲の琉球組を教えてもらいました。
古田 西山村さんの話で、わたしがちょっと注釈させていただきたいのです。「ルソン足」の件です。武智鉄二さんが早くからこれに注目されて、筑紫舞全体が室町か、そのへんに、スペインから来たものではないかという解釈を言われたわけです。これはご意見ですから、ご自由に言われていいと思うのです。
 しかしわたしは慎重でなければいけないという気持でいるわけです。菊邑検校が「これはスペイン舞踊です」と教えたなら、それでいいわけです。しかし菊邑検校はそういうことは全然おっしゃっていない。ただ「ルソン足」という形で、足を的確に教えられたということです。
 なぜそれを「ルソン足」と呼ぶかという、解釈の間題ですね。仮説はいくら立ててもいいのですが、あまり断定しないほうがいいだろうと思うのです。
 西山村さんが、ルソン人か何かが来ていてその足を真似たのではないかと、おっしゃったのはあくまでも仮説なのです。そうであるかないかは、疑問にしていいのではないかと思うのです。それは「翁」の名前が、「越の翁」が「加賀の翁」というふうに、中・近世風に置きかえられていますね。だからルソンも近世風な呼び替えであるかもしれないわけです。
 つまりその「足」自身はずーっと古くからあって、近世風に、「ルソン足」と呼ばれるものに似ているから、「ルソン足」という通称を使うようになったという場合もありうるわけです。もちろん、それまで全くなかったのが、ルソン人のしている「足」をとり入れた、という解釈もありうるのです。
 このへんのところは解釈ですので、何とも言えない。何とも言えないものは、何とも言わないほうがよろしい。「言わんで下さい」とぼくが西山村さんに言うわけなんです。
 なぜ、「ルソン足」と言うのかというのは、今後の課題であるというふうに思っております。
 あえて、もう一言、余計なことを言わせてもらえば、「ルソン足」というものが、筑紫舞にとって枝葉末節の、たいしたことのないものであれば、ちょいと真似してやろうということもあるかもしれませんが、大事な要素であれば、ちょいと真似したというのはどうかなと思うのです。
 もう一言申しますと、現代の舞などは、大体室町以後のものであるというのが、芸能史の定説というか、通説なんですね。武智さんなどは、その通説の上に立って、「ルソン足」は室町かその辺の時代に、スペインかどこかから入ってきたと理解されたと思うのです。
 しかしわたしの理解では、この舞には、弥生期や古墳期にさかのぼれるものがある。わたしはそう思っております。この問題につきまして、申しあげたいことがあります。先日用がありまして、京都の国立博物館に参りました。館長が林屋辰三郎さんで、“中世芸能史の権威”ということになっております。博物館でコピーをお願いしている間に、館長室で林屋さんと少しお話ししたのです。筑紫舞についての話ではなくて、「芸能史に関する常識として、現代に残っている(芸能は)中世か近世、古くて室町、大抵は江戸時代の半ばくらいに始まったもの、という考えがありますが、やっばりそうですか」ということをお聞きしたのです。林屋さんは「文献の人は、そういうことを言うて困るのですよ」と言われたのです。つまり文献の人は、文献に出ているものを大事にするわけですね。一つの芸能を文献でたどれるのは室町までだった。じゃあ、これは室町から始まった、こうやるわけです。また文献でたどれば、江戸時代までしかたどれない。じゃあ江戸時代に始まった、とするわけです。
 しかしこれは非常に困るのですよ。これは文字に記録された段階の話でして、芸能というのは文字に基づいてするものではないですよ。だから当然、芸能はもっと古くから、ずーっと伝わってきているものだ、という考え方をとらないといけないのに、文字からいく人は、自分がみつけた一番古い文献を、芸能自身のしょっばなのものと考えて困るんです、ということを言われました。私もそういうふうに考えておりましたので、奇しくも林屋さんと考えが一致したわけです。
 ということで、神楽なら神楽をとりましても、江戸時代や室町時代の人が発明して、それ以後やりだした、というものではないですね。歴史をさぐれば、かなり古くから行われていても、文字に現われてくるのは、室町か江戸のものが多いわけです。
 もう一つ大事なことは、それ自身古い要素をもっていても、途中でいろいろ変化が加えられるわけです。名前がわかりやすく変えられたりして、古い要素と新しい要素が混在しているのが普通なんです。「ルソン足」は弥生や古墳時代にはないから、筑紫舞は全部もっと後世のものであり、室町以後のものだというのは、ちょっと短絡です。やはり、古い要素と新しい要素という形で、分析していくほうが実態に近いのではないか、ということであります。
質問 この絵馬の写真が西山村さんの筑紫舞となぜ言えるのか、ということをお聞きしたいのです。
古田 講演でも申しましたように、この絵馬が西山村さんの筑紫舞と同じかどうかは分らないわけです。しかしわたしの理解では西山村さんの筑紫舞では重要な技法と思う「ルソン足」がここにも現われている。これが一つ。
 もう一つ。西山村さんがご覧になった時、洞窟で「十三人立」、「七人立」をしたこと。二つの絵馬にも洞窟らしきものが見えるということも、動かせない共通点である。ということで両者は、無聞係のものではなさそうである。筑紫舞そのものであるかどうかわからないけれど、無関係ではなさそうであるとわたしは判断しているのですが、どうでしょうか。

日本最大の宮地嶽古墳に至る

質問 洞窟でなぜしたのでしょうか。
古田 洞窟の意味そのものは、西山村さんは聞いておられないわけです。
 その洞窟についてですが、西山村さんが女学生の時ご覧になった洞窟は、現在のどの洞窟かという興味深い問題があるわけです。五、六年前、博多の西日本新聞(当時の文化部長の坂井さん)をたずねられたことがありました。その席に西山村さんが出ておられ、武智鉄二さんもおられたようです。この座談会のあと、「昭和十一年に太宰府に来て十三人立を洞窟で見た」という話をされたそうです。その時、西日本新聞の論説委員で学芸部関係の森山さんが、「それならありますよ。乗って行かれたのは馬車鉄道というものです。馬車鉄道は朝倉から太宰府までついていました。私は少年時代、朝倉におりましたので知っています。朝倉には私がよく遊びに行った洞窟がありますよ。じゃ、明日行ってみましょう」という話になって、翌朝一同で行かれたらしいのです。
 そしたら現在の甘木(あまぎ)市の東の郊外にあたる柿原古墳に連れて行かれました。そこに高木神社というのがありまして、横穴石室が開きっばなしになっており、その上に小さな社が建っていて、それを本殿にした神社なのです。
 「ここじゃないですか」と言われて、西山村さんも「こういう感じだった」と思われたのです。ただ行く過程で少し疑問がおありになったらしいのです。これは後で申します。「この辺は宅地開発みたいなことで、昔とはすっかり変りましたよ」と言われたので、「そうかな」ということだったのです。
 最初、わたしがお聞きした時も、そのようにうかがっていたのです。しかしわたしとしましては柿原古墳では小さい。十三人も入ったら満員になるのじゃないか、という感じがありまして疑問がございました。
 ところが今年の四月の終りに大逆転があったわけです。わたしは歴史学の方ですので、確認できることは確認しておかないといけないと思いまして、馬車鉄道なるものは福岡県で、いつ始まりいつ終ったのかを、博多の読者の方の永井彰子さんにお調べねがったのです。熱心に調べて下さって、西日本鉄道の社史室のようなところで担当職員の方にお聞きになって、ズバリ分ったわけです。それを四月の終りに知らせて下さったのです。
 これを見てわたしはビックリしました。福岡県には三つ馬車鉄道があった。一つは北九州市の北方線、小倉の方です。一つは太宰府朝倉線。もう一つは博多の福間(箱崎のちょっと東側)から出発しまして宮地嶽神社を通って津屋崎までの津屋崎馬車鉄道。
 北方線は明治にできて、大正の頃に廃止になっている。太宰府馬車鉄道は明治にできまして、大正初めに蒸気機関車、SL化して馬がいなくなった。昭和の初めに電化しているのです。結局、残った津屋崎線が昭和十四年まで存続していたわけです。西山村さんが行かれた、昭和十一年秋、柿のなっている頃、太宰府馬車鉄道はなかったということが分ったわけです。
 人間の記憶というのは、確かなようで危ないところがありますね。「私は知っています。馬車鉄道が走っていました」とおっしゃったのですが、恐らく人から聞いて、お父さんか誰かから聞いておられたのでしょう。わたしより若い四十代くらいの方ですから、少年時代に走っていたというわけにいかんのです。
 ビックリしましたが、答は一つしかないわけです。つまり西山村さんが乗られた馬車鉄道は、津屋崎馬車鉄道しかない、ということになってきたわけでございます。
 それから馬車鉄道に乗る前に、非常にのろい汽車に乗ったということです。というのはお父さんがトイレに行くのを忘れて乗った。「しもた、便所に行くのを忘れた」とか何とか言われたら、「してきて、走らはったら間にあいますわ」と誰かが言った。それくらいのろい汽車だったそうです。
 また私は馬車鉄道というものを全然知らないので、永井さんにお頼みして写真を送っていただいたのです。この馬車鉄道の説明が、西山村さんのおっしゃったとおりなのです。両側の腰のところに棚みたいなのがついておりまして、五、六人くらいしか座れない。屋根があって窓がついていた。
 西山村さんのご記憶で、緋の着物を着た少年が二人、飛びついてぶらさがった。二人のうち、小さい方だと思うのだが、落ちちゃった。年上の方が自分も降りて、転んだ子を助け起こして、一緒に歩いて来た。それを窓から見ていた西山村さんが、似た年ですからかわいそうに思って、「おじさん、かわいそうやからとめて、乗せてあげたら」と御者に叫んだが、御者の人は九州弁でよく分らなかったけれど、“かまへん、放っとけ”という感じで、知らん顔してスピードを緩めず行かはった。九州の人は冷たいな、と思った、という話があるのです。
 この土地の小冊子で馬車鉄道の説明にも、似たような話が出てくるのです。子供が飛びついて遊んで困ったそれが風物誌だというのが出てくるのです。
 初めは単なる馬車ではないか、と思ったこともあるのですが、そうではない馬車鉄道だと分りました。
 四月に九洲に参りまして、講演後、読者の方が車を運転して下さって、現地をまわったのです。結局、二つしか可能性のある洞窟はないと分りました。
 一つは有名な宮地嶽古墳。奥行二十二メートルないし二十三メートルという、開口している現存の古墳としては最大の横穴式石室です。高さも私の背よりずーっと高い天井です。もう一つは、波切不動と呼ばれる横穴石室です。先ほど出ました朝倉の柿原古墳とよく似ています。
 わたしは朝倉のことが頭にありましたので、波切不動の方かと思ったのです。結局、ポイントは古墳に行く道です。宮地嶽古墳へは小山になっていて登り道になるわけです。波切不動へはなだらかで平地になっているのです。
 わたしの東京講演の時に、西山村さんが芸術祭参加の会の打ち合せで東京に行っておられまして、京王プラザホテルでお会いして古墳への道をお聞きしたのです。
 「山道で木の根っこなどいろいろ出ていて、気持ちの悪い思いをしながら昇って行きました。」と、おっしゃられました。朝倉で、西日本新聞の森山さんにも言ったのですが、「昔はこの辺りに山もありました。今はなくなってしまったのです。という話だったのです。
 これで大きい方の宮地嶽古墳だという結論を得たのです。日本最大の開口現存の横穴式石室ですから、十三人入ってもビクともしないわけでございます。
 それから当時の御者の方にお会いしました。初め十一人だったのがバスが出てきて、競争に負けて四人に減らされることになった。皆やめるのがいやで、文字どおりくじをひいて四人残った。その中の二人はお亡くなりになっているが、二人はご存命でした。最初、八十の方にお会いしたけれど、あまり覚えておられなかった。最後にお訪ねした方は七十二歳で、当時は二十五歳前後で記憶を鮮明にもっておられたのです。
 筑紫(ちくし)というと、われわれは福岡県全体を思いますが、宗像郡ですと、筑紫郡、太宰府のほうを言うわけです。その「筑紫から再々神楽を奉納しに来ていました」と最後の方は証言されたのです。「日向から来られた時もありました」というお話でございました。
 もう一つ、北九州市の講演の後、山口さんとおっしゃる方が残られて「私は宗像に家がありました。宗像中学に入った年が、講演にありました十一年です。そして母方の実家が宮地嶽神社の前の家でございました。そこへしょっちゅう遊びに行きました。その時はいつも馬鉄に乗って行きました。母親の実家に行った時、宮地嶽神社で舞を見ました。それは洞窟の前だったように記憶しています」とおっしゃったのです。
 地理的な条件と御者の人の証言と山口さんの証言を合せまして、まず宮地嶽神社の洞窟(横穴式石室)と考えるのが、少なくとも一番状況に合っているという結論になっているわけでございます。
 最後に一番重要な問題にふれます。
 現在、洞窟の前に拝殿を造っていますが、四、五年前にわたしが筑紫舞に関係なく行った時は、開けっぱなしでした。子供の遊び場だったらしいので、誰でも自由に使えたようです。端的に言いますとと、くぐつの人達は無料の舞台だから、仮に使ったという仮説。もう一つは、そうではなくて、“この洞窟ですること”に意義があるという解釈・仮説です。どちらとも断定はできませんけれど、今のわたしの感じから言いますと、最初の方の仮説はあまりにも現代風の仮説ではないかという気がします。後の、そこで行うことに意義があったとするほうが、よりいいのではないかという感触をもっております。
 これから先は大変な問題になってくるのです。宮地嶽古墳は開口しているものでは日本最大でありということは九州最大であるということですね。森浩一さんは六世紀終りと言われ、小田富士男さんあたりは七世紀終りといわれています。まあ六世紀終りから七世紀終りの間ということになります。だからこの時期でも最大であるということでもあります。
 わたしは九州王朝という概念を出しましたが、この古墳は九州王朝の主のものか、家来のものかということになります。家来のものであれば、主人が小さくて家来が大きいとなり、おかしいですのでやはり九州王朝代々の主で六世紀終りから、七世紀終りの間の誰かではないか、ということになります。
 ご存じのように、ここからは国宝に指定されたものが続々出てきております。黄金製品とか、金の龍の冠、有名な三重の骨壼などです。外側が土器、次が銅器、一番内側が瑠璃(ガラス)で火葬した骨が入っているのです。ということで出色の古墳なんですね。
 このような出色の古墳の事実と「ここですることに意義がある」という仮説とにたった場合、この両者に何か関係があるのか、ということです。もちろんウーンと長い時代のへだたりがありますから、あまり直結さして、短絡させて議論することは危険ですけれど、今後の課題として面白い問題があるということでございます。

心眼による舞の伝授

質問 他の地域、尾張と加賀などで筑紫舞の伝承はどうでしょうか、という点と、何でも九州王朝の真似をする近畿天皇家が、筑紫舞を真似た伝承があれば教えて欲しいという二点をお願いします。
西山村 「尾張の翁」が尾張で、「加賀の翁」が加賀で伝えていたとかいうのを考えたことはございません。ただそこ(昭和十一年)に集ってきた人達は、現在住んでいるところか、その土地を代表する名前だと思うのですが、七つも地名が出てくるのに、「私のところにあります」と今まで聞いていないですので、残ってないのじゃないかと思うのですけれど。
古田 それは全くこれからの問題だと思います。現在は全く不明であるというのが、結論でございます。参考に二、三申しますと、『常陸国風土記』に杵島(きじま)舞(佐賀県)が常陸で行われているという話が出てまいります。
 ただ写本に疑問がありますので、本当に杵島かどうか確言できませんけれど、普通には九州の杵島と考えられております。もう一つ、東北の方に一部似たのがあると西山村さんに聞いています。
西山村 山形で歌謡学会といいまして、学者の方々の会合がありました。それで山形に行った時、その土地の伝承で足の運びの一部に似たのがありました。
古田 山形で見てこられた稚子の舞の中で、筑紫舞と共通の要素をみて驚かれたとお聞きしたことがあります。
 とにかく、各地に舞や踊りがありますが、その歴史的由来というものが全く分っていないのです。それを取りあげてゆくと、そこに何か面白いつながりが出てくる可能性があるかもしれないという感じはもっていますが、現在のところは全く分りません。近畿天皇家が真似をしたというのは、面白いご発想だと思います。講演で近畿天皇家は中国の真似をしたと申しましたが、案外、九州王朝の真似をしたのかもしれませんですね。宮廷舞楽をね。これは今後の非常に面白いテーマでございます。
質問 菊邑検校と唖者のお姫様、それにケイさんとの関係。それに盲人の菊邑検校と唖者のケイさんとで、どのようにして西山村さんにお教えになったのでしょうか。
西山村 その点は皆さん不審に思われるのです。片方は目が見えないで物が言え、片方は見えるが口がきけない、それで舞を伝えられたのかと皆さんに聞かれるのです。目が見えない人は目が見える人以上に分ることがあるのです。たとえば、名古屋の土居崎検校が私達の地(じ)をしてくれているのですが、「すみませんが、そこのところ速すぎるので、しずめてくれませんか」と申しましたら、「ああ、お姉ちゃん(西山村光寿)が下手(しもて)から出てきて、上手(かみて)まで行って、一回ずーっとまわって、中央から前へ四歩進むとこね」と、検校がおっしゃったのです。そこでこの人(光寿)が「え?」と言って、先生(検校)の前に行って、手を上げたり下げたりして、ひょっとしたら見えるのと違うかと顔を見に行ったことがあるのです。
 私は菊邑検校が目が見えなくても、手さぐりしたのを見たことがないのです。机の物を取るのも、手をすべらしていって取ったのを見たことがないのです。初めからそこに置いてある時は知りませんが、誰かが「ここに置きますよ」「そうですか、ご苦労様です」と言って、サッと取るわけです。踊りもそうですね。絹ずれの音で四歩退がった五歩出たなどが、みなわかるのですね。菊邑検校だけの特技かと思っていましたが、現在でも目の見えない人で地唄をする方は、私達より勘は発達していますね。土居崎検校もどこに何を隠しても知っていましたね。「窓の外のを取ってきて下さい」と言われました。
 菊邑検校は口がきけますので「サッサッサ、フンフン舞って、トトントトン飛んだら三つ出て」と口で言われるのです。それをケイさんがそのとおりにするのです。そして菊邑検校は耳で聞いていて、「ちがう」と言われたら、ケイさんは初めから、やり直されるのです。私に教える時は、口のきけないケイさんが私に見ておきなさいというふうにそばに置いておいて、自分で舞うわけです。それを私がしてるのを、見えるケイさんが見ていて、違っていると私のところまで来て、手などをパーンと叩くわけです。
 ケイさんが後ろなどを向いている時、私が頭まで上げる手を肩ぐらいでやめると、菊邑検校が「これ、どうして上まで上げてくれないのですか」と言うのです。私が「見えるんですか」と聞きますと、検校は「それが見えないようで、心眼が見えないようであなたにこんなものを伝えません」と言われたのです。おかしいなあ、見えへんと言うて、ひょっとしてほんまは見えるのと違うかと思って、歩いている検校の前にヒョイと足を横から出したら、本当にひっくり返ったので、本当に見えなかったんですね。(笑)
 それにこんなこともありました。夜中の二時頃、私の寝入った頃に、「昼教えたところの間が違ったので、気になって寝られない。今からすぐ起きてくれ」と言われまして、起きました。冬でして、昔のことですからネルのお腰をして寝ていたので、その上に着物を着て「ハイハイ」と検校のところへ行きましたら、「あなたは私を困らすんですか。夜中に起こしたからそんな意地悪するんですか」と言うんです。「どうしてですか」と聞きましたら、「ネルのお腰しているでしょう。そんなことでは私は困ります。羽二重を着て来て下さい」とおこるんです。絹ずれの音で分るんですね。
 現在の土居崎検校も同じことを言うてます。普通の人は見えるから、音は聞きませんね。見えないから音だけを聞いているわけです。着物を着て先生の前を行ったり来たりしますね。「ああ今日はいいお召物で縮緬ですね」と言われるのですよ。
 肩まで上げる腕と、胸くらいまででやめる腕でしたら、音はそんなに違わないですよ。上げた音ではなくて、それを降ろした音、風のきれ、空気の動きで、上げた腕の高さをみていたらしいのです。そういうふうに習いましたので、私にとりまして少しも不思議なことないんです。
古田 西山村さんのお話に関連してですが、福岡県に盲僧琵琶というのがあるのです。これについて書いてあるのを読みますと、同じ問題が出てくるのです。門付(かどづけ)をするので外を歩く練習をするのですが、家の格好で風の通りが違ってくるらしいのを覚えるのです。電柱がありますと、風が電柱で切れるらしいですね。それでここに電柱があると分るらしいですね。それが分らなければ商売にならないので、そういう勘が鍛え込まれていくらしいですね。
 もう一つケイさんの問題で、伝令の方が「ケイさんは小さい頃美しくて、それを妬ねたまれて水銀を飲まされて唖者になった」と言っておられたと、西山村さんからお聞きしました。水銀云々は伝令の人の風聞ですから、本当かどうか知りませんが、後天的に口がきけなくなったということははっきりしています。先天的に口のきけない方は、耳も聞こえないですが、ケイさんは耳は聞こえたのですから、後天的に口がきけなくなったのは確かのようです。
 それから一つ付け加えさせていただきます。宮地嶽神社といいますのは、ものすごく大きな、普通の神社を五つ六つ合せた社殿の敷地をもっているのですが、村の郷土史などを研究されている方々にお聞きしましたら、「宮地嶽神社は昔はもっと小さな祠だった。裏にある金比羅さん参りのついでに参ろうかというふうだった」といわれるのです。それが明治維新のあと、いわば“商売の神様”のような形で繁盛しているのです。毎月、月末になると商売の人が皆集って、ものすごい人です。ものすごい雑踏になって、一日(ついたち)の鐘が鳴ると同時にお祓いを受けるんです。それをしないとその月の商売が駄目になるという感じで、宮地嶽神社は大きくなってきたのです。とすると本来の“古墳を祀る祭り”はどこに行ったのか、その祭りと筑紫舞とは関係があるのか、ないのか、というような問題が今後あるわけでございます。

筑紫の国に「高木信仰」あり

質問 レジメにあります高木神社の説明をお願いいたします。
古田 これも面白い問題があります。田島八幡の筑紫舞を見ております時、天孫降臨とかいろいろするのですが、不思議な人物が登場いたします。中富(なかとみ)親王というのが、天孫降臨の真只中に出てきまして、重要な活躍をするわけです。天細女(あめのうずめ)に命令を下したりして、思兼命などと一緒に活躍するわけです。
 われわれの知っている天孫降臨には、中富親王なんて出てきませんし、名前も「〜命」とは違う威じですので、非常に異様な感じがするわけです。
 舞っている長老の人にお聞きしますと、「神官の祖先やという話です」というお答えでございました。百嶋さんとおっしゃる、神社に詳しい方は、中臣神道、中臣鎌足の神道と関係あるのではないか、というお話でございました。これも一つの正当的な解釈かもしれません。
 わたしの友人が太宰府の後ろにいるのです。少年時代の親友で、彼に中富親王のことを話しましたら、面白いことを教えてくれました。博多の電話帳に中富姓がかなりあるそうでして、そのコピーを送ってくれました。持つべきものは友達ですね。
 それを見ますと、博多には博多区を中心に九十軒くらいあるのです。また北九州市の博多寄りの方にゴソッと、博多よりは少ないですがあります。その他は激減するわけです。筑後の方にも若干あります。そういう分布があります。
 つまり福岡県には、中富姓が博多を中心に分布している、という事実があるのです。これは今後の面白い課題だと思います。今のわたしにとってはっきりしているのは次の点です。その神楽を作った人、見ている人にとって、「中富親王」はよく知った人物であったに違いない。つまり中富親王はこうこういう人物です、という解説がないわけです。台本の「筑紫舞覚書」(田島八幡蔵)を読みますとね。
 ということは、そのような解説ぬきにでも「中富親王」といえば分ったのですね、作った当時は。また見ている方も、「あの中富親王だ」と分ったから、説明していないのです。言い換えますと、この神楽を作った側は、年一回中富親王をPRする場であり、見ている側は、あの有名な「中富親王」は、天孫降臨の時こんなふうに活躍されたのか、と満足するわけですね。そういう意味でのPRの劇ではなかったか、と考えるわけです。
 わたしは外から来た人間ですから、「中富親王」を不思議に思うだけです。現在の博多の人も不思議に思うかもしれませんが、本来は「中富親王」は演ずる側にも、見る側にも著名の人物であった、と考えるべきではないか、こう考えてみたのです。
 そう考えると、わたしの年来の疑問の一つが解けてきたわけです。
 『古事記』、『日本書紀』にも同じ問題があるのです。非常に重要な役割で出てきながら、全く解説ぬきの神がいるわけです。たとえば高木神ですね。ニニギノミコトの、片方は高木神系列から、片方は天照系列から、その両方の孫だという話になっていますね。そして一方の天照の方は、かなりの解説 ーーいつどこで生れたとか、拗(す)ねて天岩戸に入ったとか、天照のイメージを形成するに足る神話かかなりあるわけです。一方の高木神は、どこで生れたとか、拗ねる男だったか素直な男だったか、など何の説明もないですね。
 ということは、「中富親王」の例から考えますと、天孫降臨という神話を語った人達、語られた人達にとっては、説明はいらなかった。つまりその人達にとって、「高木神」という神のことを大変よく知っていて、説明すること自体がばかばかしいようなそれほど著名な神であった。だからことさらには説明していないのだという理解が成立するのではないか、とこう考えたわけです。
 さて、高木神はどこの神かと言いますと、安本美典さんも統計をあげておられましたが、福岡県の神社名鑑高木神社というのを抜いてみますと、朝倉郡を中心に福岡県一帯に分布をもっているわけでございます。
 ということは筑紫に高木信仰が土着の信仰として存在していた、というとです。一つ一つの神社が昔からそこにあったかという確定はなかなかむつかしいのですが、全体としてみると“筑紫の国に高木信仰あり”ということを言っても、まずさしつかえがないのではないか、といえると思います。
 すると、本来は高木信仰の存在する場で語られたのが『古事記』、『日本書紀』にある天孫降臨の神話である。だから語る方は、高木神のPRのチャンスであり、聞いている方は自分達の信仰している高木神が大変重要なところで頑張っているなあと満足する仕掛けであった、というふう理解していいのではないか。そう考えますと、筑紫舞が肥後で伝承されたから、「肥後の翁」が中心になったのではないかとわたしは理解したのです。いかにも安直な勝手な考えをするものだと、お思いになったかもしれません。
 しかし中富親王や記・紀の高木神の場合と同じスタイル、演劇的な領域が共通の性格をもっているのではないか。われわれはそれが作られた本来の場における効能を忘れて記・紀で読んで覚えているから、そう思わないだけであり、生きて演じられている姿というものはそういうものではないかと、いうことです。そうすると筑紫舞が肥後で伝承されて、「肥後の翁」が中心だということは何ら不思議な話ではないんではないか、というのがわたしの得た結論でございます。
(後記 ーーこの後一九八二年十二月、西山村さんから“「三人立」は都の翁が中心であった”旨のご連絡があった。この新事実に立つと、「三人立」の弥生期成立、「五人立」「七人立」の装飾古墳期成立という問題が改めて浮び上ってこよう。この点、改めて詳述したい。)

地獄に落ちるのがいやだから伝える

司会 長時間、古代のロマンを具体的な舞というもので感じられたと思います。九州王朝がたんに一般的な可能性ということだけでなく、非常に具体性をもっているということを今日学ぶことができました。本日の講演と懇親会の話はテープにとってありますので、『市民の古代』五集にできるだけ反映したいと思います。西山村さんよろしいでしょうか。
西山村 えらい俗っぽい言い方で皆さんお笑いになったと思いますが、息抜きにこんな人もいてもいいのじゃないかと思います。また分らないところ、疑間に思われるところがございましたら、私の分りますかぎり古田先生にお答えいたしますので、どうぞご質問下さい。
質問 先程、まだ無形文化財として指定をうけておられないとうかがいましたが、そのへんはどうなっていますか。
西山村 県会議員の清元功章さんのお力ぞえで昭和五十五年、兵庫県と、兵庫県教育委員会主催で「筑紫振りを見る会」というタイトルで開きました。実はその前年に清元さんがご覧になりまして、「これは大変なものじゃないか」といろいろ聞かれました。「いえ、これはアウトロー的な筑紫振りというもので、私しかもってないものです。地獄に落ちるのがいやだから、娘達に教えています」と言ったことがあります。
 また文化庁の先生方は「せっかくお美しい(文化庁の先生が言ったのですよ)お嬢様方に、どうしてそんなきたない踊りを習わせるのですか」と言われたのですけれど、元気な間に私が習ったものは全部伝えたいから、「きたなくなって頂戴」と子供達に教えたのできたなくなりました。(笑)
 兵庫県教育委員会の方も、「困ったなあ。いいものだということは分っているが、福岡県が無形文化財の指定をするのなら、話は分るがーー。福岡県のものを兵庫県がどう認定すればいいのか。でもこれは大変なものだから、大事にして下さい。そのうちなんとか花が咲きますから」と言われました。「ええ、いいですよ」と私も申しました。
 文化庁の方も、国立文化財研究所の三隈治雄先生とか皆様は、個人的にものすごく好意を持って下さるのですが、無形文化財とかなりますと、役人としての立場上徒労に終るのが恐いんですね。
 古田先生のように私の話を基にして、コツコツ一つずつ調べて下さる、あるいは皆様方のようにいろいろおっしゃって下さるお暇がないのですね。もし何年間も調査して何も出て来なければ困るので、誰かが手をつけて調査なさるのではないかと見守っているのが現状ではないでしょうか。
 また皆様が筑紫振りを絶やさないよう、年に一回でも見てやろうではないかという会を作って下されば、張り切って出席したいと思います。どうも有難うございました。
司会 本日は長時間、有難うございました。


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