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市民の古代・古田武彦とともに第二集 1984年6月12日古田武彦を囲む会編集 特集1
『古代の霧の中から』(徳間書店)序章

現行の教科書に問う

「邪馬台国」・「日出づる処の天子」比定に誤まりはないか

古田武彦

困惑する教育現場から

 日本の古代史は、若いひとびと、幼いひとびとの掌の中にある。
 彼等が長じ立った日、かつて教科書で習った“お仕着せの古代史像”に満足しているか。それとも、そこに内蔵された矛盾にやりきれぬ不満を覚え、新たな探究を開始するか。そこに正念場がある。
 だから、わたしの古代史の第一書『「邪馬台国」はなかった』から最近の『ここに古代王朝ありき』『関東に大王あり』に至る一連の本、それは現在の心ある読者と共に、より多く彼等未来の読者を予想していた。
 しかるに意外にも、真摯かつ情熱的な読者を現代にうることをえ、その中には、教育現場の中で日夜苦闘しておられる人々もあった。その方々はわたしの本をよみ、「なるほど」とうなずいて下さったとき、一つの問題に当面された。すなわち、そこに摘出された“歴史の真実”と、教科書に書かれた“歴史の叙述”との落差、そのくいちがいがあまりにも大きいのに、毎日悩まされることとなったのである。
 それは教師側だけの“悩み”ではなかった。生徒たちの中にも、わたしの本の熱心な読者があったからである。ある中学生など、横浜からはるばる洛西なるわたしの宅を訪ねてくれた。さらに彼等の父親にも母親にも、わたしの本を読んで、子供の教科書との“あまりの落差”に驚き、教育上の悩みを告げてこられる方があったのである。
 一例をあげよう。多くの教科書には「邪馬台国」と書いて「ヤマト」と訓がふってある。しかし、わたしはわたしの本の中ですでに次の事実を実証的にしめしている。“『三国志』にも、『後漢書』にも、「夷蛮」の国々の固有名詞を現わすさい、「臺」を「ト」の表音表記に使った例はない。”と。
 これに対し、どの学者も、誰一人として、“いや、両書において、ここにその実例がある。”そう反論しえた人はいない。わたしが一九六九年、論文「邪馬壹国」を史学雑誌に発表し、一九七一年、『「邪馬台国」はなかった』を世に問うてより、十年余、この枢要の反証を誰人もあげえなかったのである。
 しかるに、教科書では委細かまわず、「台」に「ト」と仮名がふってある。わたしの本を読んだ生徒が「先生、『邪馬台』は『ヤマト』とは読めない、って書いてありました。それなのにどうして・・・」と問いはじめるとき、教師は答えるすべをもたない。「いや、この教科書がおかしいんだ。」そう言わぬ限り。
 もし、“幸いにも”教室でそのような問答が出なかつたとしても、父親は、あるいは母親は、子供の教科書を見て、「何だ。こんな無責任なことが、まだ書いてあるのか。」などとつぶやく。そのとき、子供は鋭敏な耳でそれを“聞く”であろう。


憶説によって書かれる教科書

 しかも、わたしはわたしの本で明らかにした、原本(『三国志』の魏志倭人伝)には「邪馬壹国」もしくは「邪馬一国」とある。これを「邪馬台国」と“手直し”した理由は、他でもない。“倭王とあれば、日本では近畿の天皇のみ。”という信念に立っていた江戸前期の松下見林の「原文改定」による、という研究史上の事実を。
 また、彼が三世紀の史書『三国志』の「邪馬壹国」を捨て、後代たる五世紀に成立した『後漢書』の「邪馬臺国」を取った理由も、同じ信念からだった。すなわち「神武から光仁に至るまで、ほぼ大和に都していたから。」というのが、そのすべてであった。これは、序文(『異称日本伝』)に「国史(日本書紀)をもとにし、“外夷の書”は、これに合うものは取り、合わないものは捨てる。」と宣言した方針の、その実行だったのである。
 だからこそ見林は、後者の『後漢書』においても、“「臺」は「卜」の表音表記に使われていない。”という史料事実を実証的に確認するという“必要”を見なかったのである。
 そしてこの“必要”を無視したのは、見林だけではない。新井白石、本居宣長から現今の古代史の大家に至るまで、その学問的、実証的検証を欠いてきた。そして欠いたまま、教科書の「邪馬台国」に「ヤマト」と訓をふっているのである。
 これらの事実は、すでに明らかにされており、父母にも教師にも、子供たち自身にも、古代史に関心ある者には周知のところ。それなのに、教科書は依然「邪馬台国」と書き、「ヤマト」と訓読させるのだ。
 思うに、真実は一つだ。 ーー「『三国志』の魏志倭人伝には卑弥呼という女王のいる国を『邪馬一国』と記している。『ヤマイチ』である。これについて『邪馬台国』と直し、『ヤマト』と読む説もある。」と。この記載である。

 他の例をあげよう。
 「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙(つつが)なきや。」この名文句を、多くの教科書はあげている。そしてそれを推古天皇の時代の、聖徳太子の事蹟として書いているのだ。
 ところが、右の句の出ているのは、『隋書』イ妥(たい)国伝だ。そして右の句をのべたイ妥(たい)国の王は、多利思北孤(たりしほこ)。妻([奚隹]弥。きみ)、後宮の女、六〜七百人を擁していると書かれているから、当然、男王である。

イ妥(たい)国のイ妥(たい)*は、人偏に妥。ユニコード番号4FCO。
[奚隹](き)は、奚編に隹。JIS第三水準ユニコード96DE

 これに対し、“推古女帝を男王とまちがえた”“次の舒明男帝とまちがえた。”“使者、小野妹子の先祖の一人の名を、まちがえた。”などと言って説明してきたのが、従来の「学説」だった。そのような憶説の上に立って、今までのすべての教科書は書かれている。
 しかし、わたしはすでにこれに対して反論した。

(一) 一国(中国)の使者が、“実際に会った”女帝を、理由のいかんを問わず、男帝とまちがえるはずはない。
(二) イ妥国を代表する山河として、「阿蘇山有り。其の石、故無くして火起り天に接する者、俗以て異と為し、因って[示壽]祭を行う。」と書かれている。大和の飛鳥なら、この描写はあまりにも不適当だ。すなわちこのイ妥国の都は、九州にある。

[示壽](じゅ)は、示編に壽。JIS第三水準ユニコード79B1

 以上だ。(他の理由は『失われた九州王朝』参照)おそらく多くの読者はこれを首肯したであろう、通常の常識と普通の判断力をもつひとびとであるならば。
 ところが依然、教科書には、右の記事は“聖徳太子の事蹟”として特筆大書されている。心ある親や教師や肝心の子供たちの疑いをよそに。

 学者たちは、在野の一探究者の批判など、“黙殺”すれば、それですむ、と考えているのかもしれぬ。しかし、そのとき“悩む“のは、教師であり、親であり、そして何よりも“矛盾を知ってしまった”子供たち自身なのではあるまいか。

実証的検証の目をふさぐ

 以上、わずか二例をあげただけであるけれども、この二例がただ“この例のみ”の問題に終りえぬことは、容易に察することができよう。
 なぜなら、第一の例は戦後史学とそれにもとづく、戦後の教科書の中に「皇国史観」の亡霊が生きつづけていることをしめし、その亡霊の手が実証的な学問の検証の両目をふさいでいることをしめしているからである。一九八〇年代の子供たちの教室もまた、その亡霊の支配下にあるのだ。
 第二の例はさらに大きな意義をもつ。もし「日出づる処の天子・・・」の国書を送ったのが阿蘇山下の王者、すなわち九州王朝の主であって、推古天皇や聖徳太子ではない、という平明な、書いてあるままの事実を認めれば、どうなるか。当然、その前の「倭の五王」も近畿天皇家ではありえず、九州の王者とならざるをえぬ。『隋書』イ妥国伝にも「魏より斉・梁に至り、代々中国と相通ず」と記され、「魏〜斉」間の南朝劉宋に貢献した「倭の五王」が同一王朝であったことをしめしている。
 このことはすなわち、天皇家一元主義の立場で書かれてきた日本の教科書が、その基本を失うことをしめしている。“日本列島には近畿の天皇家以外に、そしてそれ以前に王朝があり、東アジアの国々はそれを日本列島内、代表の王者として認めていた。”という、今までの日本の教科書編集者には“未想到”の、しかし世界の学者には“何の他奇なき”テーマに、とって代られねばならないのである。
 この点は、一番近い隣国たる朝鮮半島の国々との関係史に対しても、重大な影響を及ぼすであろう。
 旧来の教科書では「大和朝廷の朝鮮半島出兵」を堂々と記述するのを常とした。この点、最近種々の“改良”が行われたこと、『教科書に書かれた朝鮮』(講談杜)に紹介された通りであるけれども、問題それ自体は全く“解決”されてはいないのである。
 なぜなら朝鮮半島側(朝鮮人民共和国・韓国、さらに在日朝鮮人・在日韓国人)学者の史料的な依拠点は、『三国史記』『三国遺事』にある。そこには「倭」記事は相当量存在するけれども、日本書紀側のような「近畿天皇家下の出兵」の形では書かれていない。従って後者を“虚妄の記事”とする傾向を生んだのである。
 けれども、日本側の学者にも消しえぬ“不審”が残っている。“日本書紀の作者(舎人親王等)は、果して「無から有を生み出す」創作家なのであろうか。”と。また、“では、『三国史記』『三国遺事』に頻出する「倭」とは何者か。そこにある「倭王」「倭軍」等、その正体は何者か”と。
 この矛盾点は、かの有名な高句麗好太王碑論争を生んだ。鋭い問題提起を行われた李進煕(リ・ジンヒ)氏の着眼の出発点は、“碑面に対してとられた双鉤(そうこう)本・拓本の字面にズレがある。”という一点にあった。まことに即物検査を重んずる考古学者らしい着目であったけれども、碑面中、肝心の「倭」の文字は現在碑面に厳存し、それは石面本来の文字であって、石灰造字でないことが、責任ある報告者によって確認された。たとえば、九六三年に現碑を実地調査された金錫享氏(朝日新聞夕刊、一九七三・八・七)、一九七三年頃、修理・保存の最高責任者として現碑を視察された王冶秋氏(『ここに古代王朝ありき ーー邪馬一国の考古学』)等である。
 では、これらの「倭」とは何者か。この問題は再びふり出しから再出発せねばならぬ。

新たな視点の並記を

 以上で明らかなように、問題はいわば“二律背反”、手づまりの観を呈しているのだ。決して従来の教科書の“朝鮮出兵”記事を論難し、これを“抹消”させれば、それですむ、といった性格の問題でないことは、明白である。
 これに対し、今提示された「九州王朝」の視点に立つとき、問題は全く新たな照明を浴びることとなろう。
 三国史記に頻出する「倭」は、九州王朝であって、近畿の天皇家ではない。日本書紀は九州王朝の事蹟(朝鮮半島出兵等)を「盗用」したけれども、その手法は「時代」「人名」等の接合において、かなり恣意的である。(古事記は、その「盗用」以前の姿をしめす。)
 以上の新視点の導入以外に、この問題の“解決”はありえないと、わたしは信ずる。
 さて、教科書の問題としてこれを見よう。
 少くとも、右の三視点の存在することを、教料書は明記すべきである。編者にとって、一の立場を確信しえぬとき、とるべき手段はそれ以外にない。数々の矛盾点 ーーたとえば朝鮮半島に大和朝廷の遺品たる出土物のないことは、李進煕氏等の力説されるところだ。ーー があるにもかかわらず、これを無視、もしくは軽視し、これを“筆先の処理”に委ねたのでは、「未来への探究の両目」を子供たちから奪うこととなろう。
 最後に一言する。教科書は宗派の教科書ではない。常に「万古不易の真理」をのべている、という顔をする必要はない。それは人間の顔ではない。擬似された「神の顔」である。
 教科書は、わたしたちの世代が次の世代に渡す遺言書である。“わたしたちは、これこれの点を明らかにできませんでした。あなた方の探究を望みます” ーーこれに尽きよう。
 これを超える“権威”をもって彩ろうとするとき、教科書の「利」ではなく、教科書の「害」が生れる。若いひとびと、幼いひとびとの純真な頭脳に汚染の毒水を注入することとなろう。

 その「魂の公害」を避けるため、現場の心ある教育者、一般市民の手によって、本書の実現が企てられたのである。


 これは会報の公開です。史料批判は、『市民の古代』各号と引用文献を確認してお願いいたします。
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